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諏訪春雄通信


835回 (2018年12月17日更新)





死者の葬法―台湾から日本を見る― (24)

 

前回に続きます。「台湾原住民は日本人に先行する倭人である」という視点に立つと、日本だけでは解けなかった日本古代史の多くの難問が解決できます。今回考えたいのは縄文人の死者の弔い方です。


 




 

 上の写真は秋田県大湯の万座縄文遺跡です。いわゆる環状列石の代表例です。すぐ近くには、掘立式の縄文住居が復元されています。この広場の機能については、祭祀場と墓地の二つの説が提出されて、次のようにまだ決着はついていません。

 

「昭和に入り、秋田県大湯遺跡および藤株遺跡において環状に礫を配列した遺構が発掘され、喜田貞吉が環状列石の用語を使用したのが最初といわれる。環状列石の機能については、祭祀場説と墓地説とに大きく二分された議論が続いてきた。」(戸沢充則編『縄文時代研究事典』東京堂出版)

 

死者と生者が同一地域、または近接して共に住むようなことが、日本の縄文時代にあったのでしょうか。この重要な問題を解決する手掛かりも台湾原住民にあります。

 

1995年11月から12月にかけて、台湾南部の原住民を調査して回りました。11月29日(水曜日)。車で調査予定地の屏東県の霧台郷へ向い、途中、三地門という村を通りました。ここに私設の陳俄安博物館がありました。この博物館はパイワン族のご主人とルカイ族の奥さんで経営する、この地方では有名な原住民民俗の博物館です。


 




 

翌日、30日(木曜日)の午後、三地門の博物館のルバルバおばさん、日本名坂本セツ子さんを訪問し、直接にルカイの民俗について聞き取りを行ないました。写真はルバルバおばさんと私です。日本語がうまいので通訳を介する必要がありません。彼女の話は限りなく貴重でした。

 

村には巫女が二、三名いました。彼女たちは祈祷し、薬草を使って病気を治したといいます。前回の通信の蛇巫と関係します。オランダ人がもち込んできたガラス玉をお金の代わりにしました。麻の糸を結んで暦とし、結ぶ役は女性でした。家のなかの雑務は女の役。集落は頭目、第二頭目が支配し、村人は酒や餅を税代わりにおさめたといいます。 

 

次の写真はルバルバさんからビンロウジュの実をもらう案内役の葉漢鰲君。台湾人でも、この実を噛む習慣のない葉君はやや迷惑そうです。


 




 

おばさんの話は続きます。時間は天窓から入る光で判断しました。両手のうち、右手は清浄、左手は汚い。死者は居間に屈葬で埋め、家族はその上で生活しました。夫婦のばあい、連れ合いの死体の上に寝ました。この話は、縄文の環状列石の機能を考えるうえできわめて貴重です。台湾原住民のなかに、当然のように死者を自分たちの居間に埋め、その上で生活する習俗があったのです。


 




 

              

博物館に展示されていた家の主柱です。日本の大黒柱に当たります。山地狩猟民であったパイワン族の歴史を語る標識(一種のトーテムポール)で、動物の骨が下げられていました。右側最下段は熊の頭蓋骨です。説明文に次のようにありました。

 

「この展示は三地郷徳文村の査瑪克の所有で、黒熊はこの地で百年余り前に狩られたもの。査瑪克は陳家の祖父、勇敢で非凡な人であった。パイワン族とルカイ族の争いを防ぎ、この地に公立の学校を設立し、その事務に熱心に当たった。この地方の指導者であった。」

 

先祖の死体の上で生活する習俗と合わせて、先祖を誇りとし、先祖の霊とともに生きることによって日常に安んじる原住民の信仰と生き方がひしひしと伝わる展示でした。

 

縄文人には、北海道森町鷲ノ木縄文環状列石のように、墓域と居住地が遠く分離している遺跡もあります。そこには、死者と生者を区別する意識が働いています。

 

日本人の死者の弔い方も、仏教が普及してから大きく変わりました。墓地は寺の管理となり、墓石によって死者は区別されます。

 

しかし、仏教伝来前も伝来後も変わらない日本人の死者観は、生と死の区別は絶対ではなく、死者と生者は容易に交流するというものでした。

 

秋川雅史の「千の風になって」が大ヒットし、海に遺骨を撒く散骨、樹木の下に埋める樹木葬、供養墓を創らず手許に個人の遺骨を置いておく手許供養などが、死者の弔い方として注目されるのも、日本人の独自の霊魂観の現われです。この問題を私は『東アジアの死者の行方と葬儀』(勉誠出版、二〇〇九年)で詳しくのべました。

 

日本人の基本となった霊魂観は、人類に普遍的な身体を離れて自由に動く自由霊と、死後も身体に止まる身体霊でした。しかし、日本人の身体霊に対する関心は薄く、死は身体から自由霊が離れることであり、離れた自由霊はそのまま神となって子孫を見守るというものでした。しかも、その自由霊の宿る場所は頭蓋骨と考えていました。縄文人、そして、沖縄原住民に首狩りの習俗が強かったのは、この頭蓋骨観に理由があります。

 

写真は、前年、1994年の台湾調査で訪れた九族文化村のタイヤル族の頭目の住居の前に設けられた首棚です。


 




 

日本人が実に多様な葬式方法を生み出したのは、この自由霊重視の結果です。自由霊は身体を離れて自由に動きました。その止まる先を他界といいました。日本人の他界観は以下の六種であり、その他界に対応して葬儀も次のように多様になりました。

 

 「地下他界」 地下埋葬   「海上(中)他界」 風葬 散骨 洗骨・改葬などの複葬   「山上(中)他界」 山・岩などの山中の墓 樹木葬   「天上他界」 供養碑 樹上葬   「東方他界」 太陽信仰による東方重視の葬儀   「西方浄土」 仏式葬儀        

 

秋田県大湯の万座縄文遺跡や台湾ルカイ族の葬法は「地下他界」に分類されますが、重要なことは、死者の復活を信じ、その死体を重視していることです。身体霊重視の中国大陸の霊魂観を止めていて、自由霊重視の日本人一般の葬儀法とは違っています。台湾原住民の文化や習俗は、本土日本とは異なる大陸文化についての貴重な情報でもあり、比較することによって、本土日本の文化の知識も得られるのです。







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