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諏訪春雄通信


843回 (2019年2月11日更新)





 王爺と御霊 (31)

 

「台湾原住民は日本人に先行する倭人である」という視点に立つと、日本だけでは解けなかった日本古代史、日本文化の多くの難問が解決できます。今回考えたいのは、《王爺信仰》です。

 

先日、2月3日の民族文化の会に久しぶりに台湾から帰国の小俣喜久雄君(大葉大学教授)が参加してくれました。その小俣君から王爺信仰について質問されました。小俣君は、台湾で長く鄭成功廟を調査し、その成果をまとめてきましたが、さらに研究を王爺に拡大したいという意向でした。

 

王爺は興味ぶかいテーマですが、日本にはなく、台湾原住民社会にも存在しません。これまで、私は王爺について考えたことはありません。しかし、この通信でのべてきたように、存在しないことも深い意味があります。日本や原住民社会に存在しないという事実が、この信仰の本質を示唆しています。

 

中国で、王は日本語とほぼ同じ意味に使用される語ですが、爺には神の意味があります。王爺は「神の王」の意味です。一般には次のように説明されています。

 

「主として広東・福建省や台湾で信仰を集めている神の名。王爺はある場合には瘟神(おんしん)などとも呼ばれることがあるように、もともとは瘟神、即ち疫病神であった。明代の筆記『五雑俎』によれば、福建の海岸地方には、疫病がはやった時に、疫病神を祀ったあと、これを紙製の船に載せて川や海へ流すという風習があった。これが現在台湾の南部を中心に行なわれている王爺の祭り、即ち王醮の起源である……志をとげずして死んだ者や、民のために犠牲となった者を神に祀ったものの総称とも考えられる。このように王爺は決して一人の神ではなく、複数の王爺を祀る廟が一般的である。(『道教事典』平河出版社、1994年)


 




 

上掲写真は台湾北県の廟の王爺です。(『台湾民間信仰倚神明大図鑑』進源書局、2007年) 顔面を黒く覆っているところからも、いかにも正体の知れない恐ろしい神であることを思わせます。

 

他の研究書から注目される説を引用します。

 

黄文博著『台湾信仰伝奇』台原出版、1989年

 

 王爺 千歳・千歳爺・大人・老爺温王・代天巡狩などともいう。起源には五つの系統がある。

1 鄭王系統 鄭成功につながる。

2 瘟神系統 純粋の疫病神信仰である。

3 英霊系統 生前の英雄が死後に神と崇められた。

4 家神系統 郷里の有名人、家人が死後に神に祀られた。

5 戯神系統 演劇の守護神が王爺として崇められた。

 このように系統別けをして次の系統図をかかげています。


 




 

 下の写真は台南県北門郷の王爺廟です。このような規模の王爺廟は台湾全土で、八百座近くあります。台湾でもっとも信者を集めている神です。(『中国神明百科宝典』進源書局、1988年)


 




 

 

系統の分類法は研究書や解説書によっていろいろです。前掲の『台湾民間信仰神明大図鑑』は次のように三つの系統に分けて説明しています。

 

1古代の瘟神崇拝に起源を持ち、伝統社会環境の衛生の差、医療設備の不足によって疫病が流行し、災禍を避ける瘟王として祭祀された。

2同一神祇に由来する神ではなく、伝説によれば秦の始皇帝の時代の焚書坑儒のときに不幸な死に方をした三百六十人の進士が死後に王爺となった。

3焼王船、放王船などの習俗によって王爺信仰は急速に普及した。


この二つの解説はそれぞれ特色がありますが、王爺信仰の本質を知るうえで参考になるのは、五系統に分類した『台湾信仰伝奇』の方です。この五系統を日本と対比してみます。

 第一の鄭王系統は台湾に百社以上の廟が存在する鄭成功信仰です。鄭成功は明人の父と日本人の母との間に生まれ、明の復興のために命を捧げた英雄です。実在した歴史上の英雄を死後に神と崇める例は日本にも多くみられますが、鄭成功廟はありません。鄭成功は明の復興のために尽力した英雄ですが、その明を滅ぼした清にとっては敵です。鄭成功が敵方であるという事実が、疫病神である王爺信仰に組み入れさせた理由であったと思われますし、さらに鄭成功を疫病神と同類に扱うところから、王爺信仰は主として清人中心の信仰であったと考えられます。

 第二の瘟神系統も日本にもあります。疫病神、厄病神などの名で呼ばれ、厄病流し、厄病送りの行事も行なわれています。

 第三の英霊系統も第一の系統と並んで日本にも存在します。

 第四の家神系統も祖霊神、鎮守神などとして日本にあります。

 第五の戯神系統は日本には存在しません。日本の演劇、芸能はあらゆる神々の降臨する場であって、演劇、劇場を守護する特別の神が信仰されているわけではありません。

 

 このようにみてきますと、内実には重なる部分の多い神でありながら、王爺信仰が日本に存在しない理由は二つあります。一つは王爺が中国南部の福建省から台湾南部にかけて流布する清人中心の信仰であるからだと考えられます。

 

 そして、もう一つの最大の理由は、王爺信仰と酷似し、しかもはるかに強力で普遍的な信仰がすでに日本に存在していたからです。御霊信仰です。

 

 御霊は通常次のように説明されています。

 

  御霊 字義的には人の霊魂を尊び称することであろうが、通常は祟りをなす怨魂をさす。その用例の文献上の最古のものは『三代実録』貞観五年(八六三)五月二〇日の条で、この日、神泉苑において行なわれた御霊会のことを記し、「いわゆる御霊とは崇道天皇・伊予親王・藤原夫人および観察使・橘逸勢・文室宮田麻呂等これなり」と具体的にその名を列記し、並びに事に坐して誅せられ、冤魂祟りをなす。近代以来疫病繁発、死亡甚だ多し、天下はおもえらくこの災は御霊の生ずるところなり」といっている。(大塚民俗学会編『日本民俗事典』弘文堂、1972年)

 

 この日本の御霊信仰と比較することによって、台湾、福建の王爺信仰の本質が明らかになります。

 

 本質は祟り神である。

 強烈な神威を持つ神である。

 多種多様な姓名の神々がいるのは不運な死に方をした歴史上の人物を継続的に習合した結果である。

 王爺は祟りに対する恐れから呼ばれた最高級の敬称である。

 家神、郷土神、劇神などの守護神はのちに付与された性格である。

 焼王船、放王船、行道などの関連行事は、すべて疫神送りの習俗に始まる。

 

 これらの特質はすべて日本の御霊にも備わっています。王爺と御霊を比較することによって台湾人(清人)と日本人の祟りに対する信仰の類似と違いがよく分かります。

 




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