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本地垂迹と本地物―日本文化の独自性―
「本地垂迹」は一般の辞典類にはつぎのように説明されています。
「本地垂迹」という用語は、『法華経』「寿量品」に出ており、「久遠(くおん)実(じっ)成(しょう)釈迦(しゃか)」すなわち永久不滅の理想的仏としての釈迦を本地とし、歴史的現実として実在した釈迦を垂迹とする。この関係をそのままに神と仏の関係に応用し、日本の神々は本来仏菩薩であり、本地の仏菩薩がこの世に出現し、神となって権現すると考えるようになった。神が出家して菩薩になるという前代の神仏習合をさらにすすめて平安時代の中期までには成立していた(川村知行「本地垂迹説」『仏教文化事典』佼成出版社、一九八九年)。
本地垂迹という用語と思想はすでに仏典にあるという説明ですが、問題はその先にあります。仏と神を習合し、仏を本地、神を垂迹とする思想は日本独自のものではないかということです。
これまで何気なく受け容れてきた現象や説明が、じつは、日本人と日本文化の根本に関わる問題を内蔵していることに気付かせられることがあります。日本人とは何か、という問いを発し、私なりの答えを、昨年の2009年4月に刊行した『大地 女性 太陽 三語で解く日本人論』(勉誠出版)にまとめました。しかし、この本に書きもらしたこと、その後に考え付いたこともまだまだあります。ここで取りあげる本地垂迹説そして本地物もそれです。
インドで仏教が誕生したときに、先行するバラモン教やヒンズー教の神々を仏教の中に取り込んで帝釈天、弁財天などの仏教守護の神々に位置づけたことはよく知られています。しかし、この現象は同じインドの内部で仏教成立期に起こったことで、他国の神々の習合とは違います。しかも、仏の変化形が諸天であること、つまり同体なのではなく、両者は別の存在です。
仏教が中国に伝来したときに中国ではすでに道教という強固な宗教が存在していました。やや遅れて、儒教も成立します。この道教、儒教の神々と仏との間にも、日本の本地垂迹のような現象や理論は生れていません。中国最大の辞典である『漢語大詞典』にさえ本地垂迹ということばは立項されていません。
中国の祭祀には多くの神々が祭壇に招かれます。場合によると、200種、300種の神々の名が列挙されます。そこには、道教、仏教、儒教の神々、仏が同居しています。
ここでも強調したいことがあります。それらの神仏は異質な存在が異質のままで上下関係のなかで配列されているということです。本地垂迹のような両者が同体となる習合ではありません。
中国の神仏と同じ現象は韓国にも見られます。韓国にも日本のような仏神同体の本地垂迹思想は存在しません。
なぜ仏と神を一体とする思想が日本で生れたのか。じつは日本でも初め神は仏の護法神でした。たとえば、宇佐八幡は仏教に帰依して大菩薩の名乗りを与えられ、仏教の守護神になっています(八幡宇佐宮御託宣集)。さらに次の段階で、神と仏を対等とする観念が生れ、仏菩薩がこの世に仮の姿の神となって出現するという仏神同体観念の成立は平安時代中期になってからです。しかも、本地垂迹説は、中世の神道各派で、神が本地で仏が垂迹であるという逆転さえ起こっています。
このように本地垂迹説の形成過程を日本の奈良から平安の仏神の関係の変化にたどることができます。この事実は、本地垂迹説が完成した形態で日本に伝来したものでないことを示す端的な証拠です。
本地垂迹説はなぜ日本で形成されたのか。この問題を検討する前に、本地垂迹説と関連する本地物について考えてみます。
本地物とは通常つぎのように定義されています。
御伽草子・古浄瑠璃・説教浄瑠璃等に見られる物語形式。本地垂迹説に基づくものであるが、神に対応する本地仏を述べる教義的記述とは異なり、むしろ本生譚(ジャータカ)と類似して、特定の社寺に祀られている神仏が前生に人間界に生を受け、人間が現実に受けているのと同じ憂悲苦悩(特に愛別離苦の諸相)を体験して、その苦から衆生を救済すべく発意、神仏に転生する物語が基本型である。(村上学「本地物」『日本古典文学大辞典』)
この説明による限り、本地物は神仏がいったん人間として生まれ、数々の苦難を体験したのちに再度神仏に祀られる物語の形式ということになります。つまり「神→人→神」です。しかし、この定義にあてはまらない本地物の作品があります。
中世物語の一つ『さよひめ』。主人公小夜姫は亡くなった父の菩提をとむらう費用を手に入れるために自分の身を人買いに売り、人身御供に立ちました。しかし、日ごろ信仰する「法華経」の功徳によって一命が助かり、のちに琵琶湖のなかの竹生島の弁財天として祀られます。多くの異本がのこされており、その一つ『さよひめのさうし』には
小夜姫は、百二十と申すには、近江の国、竹生島の弁財天と、いわわれ給ひ、世上を導き、福神と、ならせ給ふとかや。
とあります。小夜姫が前世に神仏であったという記述はありません。彼女は人間に生まれ、人の苦しみを代わって身にひきうける代受苦によって、生きながらに神となっています。つまり、「神から人へ、人から神へ」ではなく、「人から神へ」という変化です。このような作品はけっして少なくありません。よく知られている『山椒大夫』などもその一つです。
本地物はすでにいわれている「本地垂迹」、仏菩薩と神との関係に限定する定義をはるかに超えた広がりを獲得しています。
このような広がりを説明しきるためにはこれまでの本地物の定義を考えなおす必要があります。仏教の本地垂迹論から解き放さなければなりません。
もともと本地物とはそこに出現した神の本体をつきとめたいという祭祀の参加者の意思が起源となっています。これまでいわれているような仏教ではなく、シャーマニズムにその根源があります。
神が人間にのりうつってくる憑霊型(ポゼッション型)のシャーマニズムでは、その場に出現した神が善神か悪神か、善神だとしてもいかなる本体、霊験力をもつかの確認が、その祭りに参加した人たちの最大の関心事となっています。扱いを誤ると善神も祟り神となり、悪神はますます猛威をふるうことになるからです。このような実例は日本の歴史書や古典文芸から数多くあげることができます。
したがって、シャーマン、祭りの主宰者は、自己の責任において、出現した神の素性を人々に説きあかさなければなりません。その長い語りが文芸化されて本地物となりました。中世や近世の本地物語で、きまって冒頭や最後に主人公である神の素性がたいせつな秘事として解き示されるのはそのためでした。
現世の人間がのちに神仏に祀られる本地物は日本独自の形式であり、基層には、人が神と交流する憑霊型シャーマニズムの信仰が存在しました。同様に、神仏が同体となって融合する本地垂迹思想の形成にも日本独自の多神教風土が働きかけたと考えることができます。
この通信410でチベットの「魔女仰臥図」を紹介しました。仏教が土着のシャーマニズムを魔女・羅刹として鎮圧した図です。こうした現象も日本の多神教風土とはまったく異なる信仰風土、一神教的多神教風土の産物でした。
東アジア文化には多くの共通性がありますが、そのなかにあって日本が特に異質な文化を育てていたことも疑問のない事実です。
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火と水の象徴 (6)
第二部 水
1 神仏の賜物
神聖な水が仏と信者に捧げられることによって壮大な火の祭りが成立する。
最初に聖水が汲みあげられ、その水を中心に複雑な火の祭典が進行するという構造は三信遠の花祭りにも見ることができる。
この霜月神楽の最初の神事は聖なる滝の水を汲みあげて祭りの庭に運ぶ「滝祓い」の神事から始まる。この水は火祭りと結合した湯立ての神事の主役となる。早川孝太郎は名著『花祭』(講談社学術文庫、二〇〇九年)のなかで、この滝の水を汲む神事はその場で、関係者が禊をする意味と、その水を湯立てに迎える意味の二つがあると指摘している。
若水汲みやお水取りは水を大地の存在と観念しているのに対し雨乞いの多くは水を天の存在と観念している。この天水観は日本の古来の水観念ではなく、大陸からの伝来である。
日本の各地には多様な形態の雨乞いの祭りが行われている。それらは、雨は天からもたらされるものであり、とくに竜神が管理しているものであるという大陸伝来の観念がはっきり見てとれる形態と、雨は水であり、水は大地から生じるものという観念の支配する形態と、大きく二つに分けることができる。
特定の聖地から代参の者が水の種を受けてきて田や畑に撒いたり、地蔵や釣鐘を川や池に沈めたりするなどの形態(小嶋博巳「雨乞い」『日本民俗大辞典』吉川弘文館)は後者であり、竜神に祈願する形態は前者である。
京都の貴船神社の「雨乞祭」は大陸伝来の天水観と伝統的な地水観が融合している。
「雨乞祭」は毎年三月九日、農耕作業の開始される時期を前に行われる。現在の祭儀は、神前にあらかじめ境内から湧き出る神水を手桶に汲んで供え、献饌、宮司が「今年一年、五風十雨適度の雨を賜りますように」との祝詞を奏上する。これはお水取りであるが、禰宜がその水桶を持って拝殿外に南面し、榊の枝で天に向かってその水を散水する。そのとき禰宜は「雨たもれ、雨たもれ、雲に掛かれ、鳴神じゃ」と、大きな声で唱える。これは天水観に基づく。
本来、貴船神社は水を司る神といわれ、現在の奥宮の本殿の下には竜神の篭り給う竜穴があるとされてきた。明治を迎えるまで、「雨乞祭」は奥宮の山中の「雨乞の滝」で行われていたという。あきらかに大陸伝来の竜神信仰が日本古来の地水信仰と融合してきている。
水は神仏の賜物であり、また、神仏そのものであった。各地に存在する水神社、水神碑などがそれを示している。神奈川県の丹沢山中に鎮座する大山阿夫利神社の主神は大山祇神(おおやまつみのかみ)という山の神であるが、またの名を大水上御祖神(おおみなかみのみおやのかみ)とも、大水上神(おおみなかみのかみ)ともいう水神である。
(つづく)
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国文学百年の苦闘 ―国文学太平記― (10)
一回性、集団性重視の享受
《はなし》に属する説話集のテキストはそれほど種類がゆたかでもないし、系統も複雑ではない。『今昔物語集』の現存写本は六十本をこえているが、その祖本はすべて鈴鹿本へたどることができる。そこから枝分かれしていった事情は書物として書写されていった過程でおこったもので、口承のためではない。おなじように『宇治拾遺物語』は写本、版本合わせて二十種に満たないテキストが伝えられているが、書写、刊行の過程で生まれた異本であって、物語のように享受の形態の違いで生まれたとみることはできない。
《はなし》の系統の古典作品は、書写される機会が語り物の系統に比較してとぼしく、いったん書写されると、固定化しやすかったとみることができる。そのことが、現存する諸本の数と種類をすくなくしている。
《はなし》の古典作品で注目されるのは、筆写以前の口伝えの享受の場ですでに変化していたと思われる痕跡をとどめていることである。その変化は《語り物》系に比較してもはげしく、ここにこそ《はなし》の享受の特色があった。
『宇治拾遺物語』は総計百九十七話をおさめている。そのうち、百四十話余りが、『今昔物語集』、『古本説話集』、『古事談』ほかの先行、後続の説話集にほぼ同文で採録されている。これはあきらかに書物として転写されたものであった。これだけ多くの話がほかの書物にも取られていたところには、《語り物》とは異なる《はなし》の自由さをみることができる。しかも、それだけではない。《はなし》の自由さはむしろ書物化される以前にこそ発揮されていた。
「雀報恩の事」、「博打の子、婿入の事」
の二つの話は、同文の話、類似の話が各種の説話集に見出すことができず、同型の昔話が今も民間に流布しているものである。
また、
「鬼に瘤取らるる事」、
は、文献に類話がみとめられる他方で、やはり、現在も各地で類似の話が昔話として行われている(小林保治・増古和子「関係説話表」『日本古典文学全集50 宇治拾遺物語』小学館、一九九六年)。
この三話は説話集におさめられた《はなし》が、文献に記しとどめられる以前に、自由に民間に話され、享受されていたことをしめす痕跡である。書写による転写の証拠が発見されていない話は、ほかにも五十話近くある。これらの多くは、以上の三話とおなじように口と耳でひろまった話であった可能性がつよい(西尾光一「宇治拾遺物語」解説『日本古典文学大辞典』岩波書店)。
古典文学を《かたり》・《はなし》・《うた》の三者に分類して系統をたどることは有力な視点である。これまでに、《かたり》と《はなし》のテキストの不安定さを、《一回性・集団性》という観点からみてきた。《うた》ではどうか。 (つづく)
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