「柳田民族学 その夢と挫折」
4月28日の民族文化の会で私が発表する予定の話の要点です。今更、いうまでもなく柳田民俗学は、柳田国男とその弟子たちが構築した、近・現代日本を代表する学問体系です。写真は柳田国男。
しかし、柳田民俗学にはいくつかの批判が寄せられていることも事実です。たとえば柳田門下生の一人桜井徳太郎は2003年に吉川弘文館から刊行した『私説柳田国男』でそれまでに指摘されてきた柳田学の欠落として
天皇制に少しもふれていない。
被差別部落の問題を極力避けている。
セックスの問題はまったく取り上げていない。
農村や漁村、山村中心の民俗学であって、都市の民俗学に手をつけていない。
の四点をあげています。いずれも納得できる指摘ですが、さらに、私は柳田民俗学の最大の欠落として「海外との比較の視点を欠いて一国民俗学に止まったこと」を、これに付け加えます。
柳田民俗学は、なぜ一国民俗学に止まったのか。最大の謎です。この謎が解けると、「天皇制に少しもふれていない」という問題も容易に解けるし、周辺にいた岡正雄、渋沢敬三、早川孝太郎などの、それぞれのちに一家を成した優れた弟子たちを破門したり、彼らと疎遠になったりした事情も説明できます。
この難問を説明するために、私は今回の発表で、柳田民俗学が形成された大正末から昭和10年代までの日本の国家情勢と柳田民俗学の展開を丁寧にたどりました。そこから、はっきり見えてきたことは、柳田民俗学が描いた夢とその挫折の過程でした。
柳田国男は、大正九年の十二月から翌年二月にかけて九州東部から琉球諸島へかけて旅をしました。「海南小記」はその折の紀行文です。この書で、日本人の祖先がまず沖縄の島々にやってきて、そこで繁栄するうちに、次第に北のほうに進出していったのではないかと推測しました。
柳田は海外への関心がなかったのではなく、その研究生活の最初から、日本人の祖先は海外から沖縄にきたという視点を持っていたのでした。しかし、時代がこの研究の貫徹を許さなかったのです。
柳田が民俗学の樹立に努めた大正末年から昭和初年は日本が軍国主義の道をひた走っていた時代でした。高級官僚でもあった柳田は、民俗学を一国民俗学に限定し、海外調査の夢を自己にも弟子たちにも封印せざるをえなかったのです。柳田の挫折です。それを証明する柳田の著作が前述の大正10年の「海南小記」です。この書で柳田は沖縄のさらに南の島々に対する熱い関心を吐露していました。柳田はこの方向の研究を続けると、天皇の起源を海外に求めなければならないことに気付いたのです。当時としては絶対に許されなかった視点です。
昭和20年、終戦によって表現の自由が許される時代がきました。それから十六年を経た昭和36年、柳田の最後の著作、『海上の道』が刊行されました。柳田はその翌年に87歳で亡くなっていますので、文字通り、柳田の遺作となりました。
この書で柳田は、長い間、押さえつけてきた夢を吐露しています。柳田の視線は沖縄を越えて南洋を移動した海洋民族に注がれています。日本の固有信仰を海洋文化とみて、原日本人の起源を島々に住む海民としています。この書の冒頭の「海上の道」という文で、日本人は遙か南の海から「海上の道」を通ってやって来たと論じます。日本人が風と宝貝と稲に異常な関心を示すのは、かつて日本人の祖先が遙か海の彼方から風に乗って、宝貝を求め、稲作を持って、やって来た名残だといいます。
しかし、この書で、「年をとり気力すでに衰えて」と自らのべているように、高齢を迎えて海外調査の余力はなく、これまでの国内調査の成果だけで『海上の道』を執筆せざるをえませんでした。
「やや奇矯に失した私の民族起源論」と、最後に自らいうように、「宝貝を求めて日本渡ってきた」という、仮説にもならないメルヘンです。
写真は別名子安貝ともいう宝貝。
宝貝は子安貝ともいい、古代中国では通貨として使用されたことがあったために貨幣に関わる漢字に貝の字を当てるものがあります。南島諸島では安産などの霊力を持つとして巫女などが重用しました。柳田は日本人の祖先は、この宝貝を求めて黒潮の道を沖縄の宮古島へ移動した南方系の人たちであったと論じました。たしかに、特殊な貝ですが、熱帯、亜熱帯の産物で、その普及は限定され、中国大陸南部には存在せず、民族の大移動の原動力となる力を持ったとはとうてい考えられません。
気力と体力が充実していた昭和初年代の柳田国男に海上の道を自由に追求させていたら、どのような成果をあげていたか。残念です。「柳田民俗学の夢と挫折」です。次の民族文化の会でくわしく話します。
「女性祭祀が日本を救う」 (6)
前回に続きます。「女性祭祀が日本を救う」というきわめて重要なテーマです。いまはほとんど忘却されてしまった女性の霊性が日本を救ってき、いまもこの国を救いつづけているという事実です。西欧流男女観や、仏教・儒教の思想では、絶対に見えてこない風景です。
台湾原住民鄒族の戦士祭
ツォウ族には男性の巫師がすでに存在し、病気の祈祷、悪神除けなどに活躍している。しかし、戦士祭などの集落あげての大きな祭祀を取り仕切るのは巫師ではなく大頭目である。私はこの大頭目から詳しく取材することができた。
中央大頭目、向かって右端は大頭目の弟。取材終了後の記念撮影。
大頭目(酋長)はペジョンシー(鄒族語)といい「根幹」の意味である。完全な世襲で、対外的に集落を代表し、対内的には最高の行政首長である。また集落の重要な祭祀の祭司を務める。しかし、専権者ではなく、集落の重要な行事は氏族族長、集落長老との合議で決める。
女性祭祀が男性祭祀に変化した最大の要因は生業である。この原則は社会形態がさらに変化しても揺らぐことはない。
社会が複雑化し、その社会を支配する支配者が男性となったときに、支配形態を政治とよぶようになる。その段階では、政治が生業を支配し、祭祀をも動かすことになる。
このような重要な変化を鄒族の戦士祭で見ることができた。鄒族社会では、大酋長に象徴される政治が戦士祭を動かしていた。その段階で、民族の最高神も女神から男神に変る。
しかし、祭祀の主宰が男性に変わった段階でも、女性の霊性に対する信仰は生き続け、男性を活性化している。そうした状況が、きわめて鮮明に、台湾原住民社会に存在している。さながら日本社会の歴史の縮図である。
以下は鄒族に語り伝えられている大頭目誕生の神話である。その誕生には女神が重要な役割を演じている。あえていえば、日本の天皇家の祖アマテラス神話にも通じるものがある。
ある日、一人の娘が河辺で網で魚を捕っていると、一本の棒が網に入った。その棒を網から外したが棒はすぐに網に戻った。そんなことが五、六回続いたので娘は棒を家に持ち帰り外に捨てておいた。娘が洗濯したり地面を掃除したりしていると、突然棒が見えなくなり、彼女は妊娠して一人の男児を生んだ。当時、世界の人間は女性だけだったのでこの男児を殺した。のちに再度出現した彼はすぐれた才能を発揮し多くの猪を猟して人々の尊敬を集め、特富野の頭目になった。彼が特富野の頭目の祖先である。彼は死後もその霊魂が特富野に止まって氏族を助けて多くの奇蹟を起こした。
達邦鄒族の文化村
日本統治時代のまえ、ツォウ族は達邦社、特富野社、伊姆諸社及び魯富都社の四つの大社があったが、現在は達邦・特富野の二社に統合された。これまで紹介した戦士祭は特富野の行事であり、もう一つの達邦集落はさらに進んだ観光施設「優遊吧斯」を経営していた。「優遊吧斯」はツォウ族語で、四季の楽しみを享受する意味という。
この施設でも祭りから芸能、娯楽へと推移する変化の過程について、純粋な形で学ぶことができる。
達邦社の文化村は、海抜1300メートルの茶畑のひろがるなかにある(写真上)。民芸館、博物館、売店、食堂(写真下)、イベント会場などから成る一大総合施設である。2009年、台湾中部に大震災が起こり、阿里山の各集落も壊滅的な打撃を受けた。その際に部族の生き残りをかけて、企画、建設された施設であった。生業が祭りを生計のための娯楽へと変えたのである。
(つづく)
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