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諏訪春雄通信



836回 (2018年12月24日更新)




 
死者の葬法―台湾から日本を見る― (25)

 

「台湾原住民は日本人に先行する倭人である」という視点に立つと、日本だけでは解けなかった日本古代史の多くの難問が解決できます。今回考えたいのは、前回に続けて、縄文人の死者の弔い方です。

 

前回の通信でものべたように、同じ環状列石でありながら秋田県大湯の万座縄文遺跡のように、死者の墓場と生者の居住地域が一つに重なる遺跡と、北海道森町鷲ノ木縄文環状列石のように、墓域と居住地が遠く分離している遺跡もあります。生者と死者の同居と分離はなぜ生じたのでしょうか。葬法に関わるもっとも重要な根本問題です。この難問を説く鍵も台湾原住民にあります。


 




 

 前回の通信でものべたように、台湾原住民には死者と共生する種族がいます。ルカイ、パイワンなどです。昭和の始めに衛生上の理由から日本人によって禁じられるまで、家族が亡くなると自分たちの居間の地下に死体を葬っていた種族はもっと多かったといいます。

1994年11月の台湾調査の際に訪れた九族文化村でも、パイワン族の住宅の内部に墓が作られている展示を見ました。上の写真です。

               

その説明によると、男性の墓は窓近く、女性の墓は奥に造られます。敵に首を切られた死体、凶死(不吉な死に方)した死体は室内に葬らず、野外か門の外に葬ります。このような葬法は、本来は、死者の蘇生を期待し、その保護を祈る親愛の情に発したものでしたが、次第に死に対する恐怖の情が生まれた段階で、居住の場所と墓所は分離されていったことをよく示しています。

 

首を斬られた死体、不吉な死者など、死者に善悪の二者があり、悪の死者の墓地は、生者の居住空間から離れた場所に設けていたことが分かります。


ここで、さらに重要な問題が生じます。 その第一は、日本人は死と生をいつ、どのようにして認識したのか、という問題です。


 

死の世界と生の世界を分けるということは、どのような理由で、何時ごろから始まったのでしょうか。

 日本のイザナギ・イザナミ神話では、黄泉の国へ去ったイザナミの後を追ったイザナギは、妻の言葉にそむいて死体を見るという「見るなの禁忌」を犯してしまいます。ヨモツシコメに追われたイザナギは黄泉比良坂まで逃げてきて黄泉の国と現世との境を巨大な岩でふさいでしまいます。

 

この神話は、いろいろな読み方ができますが、死の国と生の国の分離の物語とも読むことができます。イザナミの去った黄泉の国は横穴式古墳の構造をとっていますので、神話の内容を信じる限り、日本人が生死の分離を意識するようになったのは三世紀の後半、古墳時代のころからということになります。

 

しかし、考古学の研究成果によると、日本人の生死分離意識の誕生はもっと古くさかのぼります。

 縄文時代、各地から出土している環状列石、ストーンサークルのなかには、その周辺から高等動物(人間)の脂肪酸、コレステロールなどが検出され、墓地ではなかったかと推定さる遺跡がありました。さらに、住居、廃棄場などがその周りに配置されていて、縄文の典型的な居住空間は、空間、墓地、居住地などが、同心円状に構成されていることが明らかになりました。秋田県大湯の万座縄文遺跡などです。

 縄文人にとって、死者の埋葬地と生者の生活領域は、同心円状の空間に共存していました。ここから、川村邦光氏は、著書『ヒミコの系譜と祭祀 日本シャーマニズムの古代』(学生社、2005年)で、次のように推定しています。

 

「生者の世界と死者の世界が同心円状に共存しているなら、そこには連続性があり、両者の世界の確固たる切断・断絶はない、といえるのではないでしょうか。生者は死者=先祖と空間をともにして生きると考えるなら、他界という観念は縄文人には存在しなかったといえるかもしれません」

 

つまり、死の世界と生の世界の間には区別がなかったということです。すでにみたように、環状列石には生死分離の遺跡も存在しますので、川村説をそのままに承認することにはできませんが、台湾の原住民の調査結果から、人類の初期の段階に生死共存の観念が存在したと考えることはできます。

 死の世界と生の世界が分離され、死者の住む空間=他界が構成されたのは、川村氏によれば次の弥生時代でした。氏は、生者の居住空間と死者を葬る墓地との分離からそう推定します。この時期については疑問がありますが、墓地と居住地の空間配置によって死の世界と生の世界の関係を考える川村説は魅力があります。


 

 パイワン族の屋内墓地から生まれる第二の問題は、前回の通信でも問題とした霊魂の善悪です。

 

パイワン族の二つの葬儀法は、自由霊、身体霊という二種の霊魂とどのように関わるのでしょうか。霊魂に死後に死体を離れる自由霊と、死後も身体に止まる身体霊の二種があることは、これまでも度々のべてきました。

このパイワン族の弔い方に区別があることは、霊魂に善と悪があることをすでに認識していたことが分かります。不吉な死者の身体霊が生者に祟りを働くことを恐れて、死体を弔う墓を離れた場所に作ったとみられます。


パイワン族の葬儀法をヒントに考えるべき第三の問題は複葬です。 


 

 

 葬儀法に複葬とよばれる形式があります。仮埋葬と本式の埋葬と二度行なうことで、二重葬などとよばれることもあります。死者が出ると、その死体を住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓を造っておき、一定期間が経過したのち、家族の墓地に弔い直します。

 『日本書紀』や『古事記』によりますと、古代の日本の天皇が亡くなると、遺骸を棺に納めて宮殿の庭などに特別に造られた、あらきとかもがりとかよばれた建物(いずれも殯の字を宛てます)に安置しておきました。その期間は一年以上五年を超えることさえありました。そしてその期間を経過したのち、正式な墓を造って埋葬しました。この風習は、通説では、中国の皇帝の制度が6世紀のころに日本に入ってきたものといわれています。

 しかし、この殯の制度は、早く3世紀の日本を描写した『魏志倭人伝』の倭人の葬式習俗の記事に、「その死には棺あれど槨なし。土を封じて塚を作る」とあって、仮墓を作り、のちに本墓を作ると記述されていますので、6世紀に始めて日本に入ったという説は信じられません。イザナギ・イザナミの黄泉国神話にも複葬の成立を見ることができます。もちろん、日本だけの習俗ではなく、ほとんど汎世界的に分布しています。

 

複葬の意味と誕生については、通常、次のように死者の霊魂への恐怖として説明されています。

 

「人間の死は、肉体の死とその死の直後の時期、中期の時期、最終の儀礼、の三段階に分けられる。死の直後から中間の時期は肉体が腐敗していく期間であり、この期間は死者の霊魂がまだ死者の肉体に止まっていて、生者をおびやかしつづけるきわめて危険な時期であり、また不浄な状態にある時期である。従って厳重な喪に服さなければならない。この危険な時期が終わり、最終の儀礼の段階になると、多くはそこで洗骨が行なわれ、正式に埋葬される。ここで死者の霊魂は完全に肉体から分離して落ち着くべき場所におさまる。」

 

この説明は、ある研究書からの引用ですが、二つの問題点を指摘できます。

 一つは、これまで論じてきた人間の霊魂の種類です。人間が死ぬとすぐに肉体を離れる自由霊(中国でいう魂)と死後も肉体に止まる身体霊(中国でいう魄)の二種があると考えられています。上の説明に、死後も肉体に止まる霊魂はこの身体霊のはずですが、この霊魂が肉体が腐敗したときに遺骨から離れてしまうという観念の存在は証明できません。

 二つ目の問題は、身近な場所に死体を仮埋葬しておく第一段階は、生と死が分離していなかった古層の信仰の遺存状態と見るべきではないかということです。つまり、次のような三つ段階をたどって人間の葬制は変化したと考えることができます。

      〈生死共存〉→〈生死共存+生死分離〉→〈生死分離〉

 

この中間段階が複葬に関わります。とすれば、複葬を誕生させた深層の意識は、死者に対する親愛の情であり、死者に対する恐怖の情が徐々に強くなった段階で生死分離の葬制が誕生したと考えられることになります。

 人間は霊魂の存在を認識し、やがて、現世に悪意を持つ霊魂があることを知りました。死が恐ろしいものとなったときに死者を葬る場所を生者の居住区間と分離させました。しかし、生死の共存から一挙に生死分離が実現したのではなく、一部の人たちの間に、永く両者が共にある時代が続いていました。台湾原住民の習俗がその事実を教えてくれます。

 

1993年の4月から5月にかけて、中国東海の島々に倭人の子孫の民俗を調査して回りました。その報告はのちに『日中文化研究別冊 中国東海の文化と日本』(勉誠社、1993年)としてまとめました。

舟山列島の最大の島である泗礁嶋を調査したときに、この地方で行なわれている複葬の仮墓と本墓を見ることができました。下の写真です。


 




 

中国東海岸一帯に複葬の習俗が浸透していました。死者が出ると近くの田畑などに仮の埋葬墓(殯廓とよんでいた)をつくっておき、一年または三年経過した時点で、山の傾斜地に里の方にむかって永久的な墓をつくって埋葬しなおします。死後、肉体が腐敗していく時期は、まだ霊魂(身体霊)が肉体にとどまっていて、不安定なので、厳重な喪に服し、その期間をすごしてから、多くは洗骨の儀礼をともなって本墓に埋葬しなおしました。



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