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諏訪春雄通信


852回 (2019年4月22日更新




 「女性祭祀が日本を救う」 (9)

 

前回に続きます。「女性祭祀が日本を救う」というきわめて重要なテーマです。いまはほとんど忘却されてしまった女性の霊性が日本を救ってき、いまもこの国を救いつづけているという事実です。西欧流男女観や、仏教・儒教の思想では、絶対に見えてこない風景です。


Ⅴ 奄美奄美の祭祀に見る女性と男性 

稲作祈願と祖霊祭祀

 

奄美・沖縄各地では盆は旧暦七月の行事として行なわれる。肉食などの小異はあっても本土の盆行事とほぼ共通している。この行事には中国から仏教とともに渡来した盂蘭盆会の行事が根底にある。

一方、奄美・沖縄の旧暦八月のミハチガツ、八月踊り、八月遊びなどは、本質的に豊作祈願と祖霊祭祀が結合している。旧暦七月の盆も本質は祖霊祭祀である。祖霊祭祀を二回繰り返すのはなぜか。

盂蘭盆については、六世紀ごろに中国で成立した『盂蘭盆経』によって、梵語のウランバナに由来し、倒懸の意味とする。餓鬼となって逆さ吊りの苦しみを受ける祖霊を救うためのインド起源の仏事とする。しかし、これには有力な異説があり、イラン語で霊魂を意味するウルバンが語源で、祖霊祭祀と収穫祭が結合した祭祀であったとする(岩本裕『日本仏教語辞典』平凡社、一九八八年)。この両説は奄美・沖縄では二者択一ではなく、両立する。

奄美・沖縄の旧暦七月行事は中国本土由来、八月祭は西域由来と考えることができる。盆を中国由来とする理由は、中国道教の中元の語を使用するからである。八月祭を中国としない理由は、私自身の来訪神儀礼調査の結果である。

 

中国、日本の来訪神儀礼は、すべて秘密結社組織となっていて、仮面の作成過程や儀礼の進行の詳細は、結社成員にしか明かされていない。しかし、日本でも南太平洋系は結社制度を取っていない。

日本の来訪神儀礼のほとんどは、長江中流域に起源する儀礼が稲作とともに西へ伝わり、ベトナムを経て沖縄に上陸した。しかし、仮面の様式からみて、悪石島のボゼ、硫黄島のメンドン、竹島のメンドン・カズラメンなどは、その流れからはずれる。両者の仮面の違いは、()中国系の仮面は顔だけをおおう小型であるのに対し、メラネシア・ポリネシアなどの南太平洋系の仮面は頭部から上半身をすっぽりとおおう巨大な被り面で、()耳や目、鼻、口などもグロテスクに誇張され、人間の顔とはみえない。()中国系仮面が長期、大切に保存されるのに対し、南太平洋系は祭礼が終わると、破却または焼却される。()分布も、中国系が北海道を除く日本全土、沖縄から東北にまで及ぶのに対し、南太平洋系は、日本では南九州の鹿児島県知覧からはじまり、薩南、南西の火山帯の島々の一部に限定される。

 

南太平洋系硫黄島メンドンと中国系石垣島アンガマ


 





 

海の信仰 奄美大和村今里のオムケ

 

オムケはお迎えの意味、神を海の彼方の楽土から招きお迎えする行事。楽土はテルコナルコというが沖縄でいうニライカナイである。神女たちはトネヤとよばれる祭場に集まり、親ノロのカミグチに合わせて祈願をし、舞を奉納する。そのあとススキ葉を左右に振りながら海岸へ降り、立神岩を正面に見る海岸で神を迎える祈願をする。写真は一八九九年のオムケ。現在は海岸オムケはなくトネヤの祈願がほとんどである。


 




 

安田(あだ)のシヌグ

 

沖縄本島北部で行なわれる男性中心の祭り。安田では旧暦七月の行事。体に木の葉を男子集団が下りてき、村の広場や道の両側に待つ人たちを手に持った木の枝で祓いをする。男たちは浜辺に勢ぞろいし、まず山に向かって拝み、次に海に向かって拝み、身にまとった木の枝を海に流す。かつての村落共同体の豊漁祈願である。

写真は山を下りる男性と海辺で祈る男性。


 

 

 

伊平屋島田名のウンジャミ

 

男のシヌグに対し女のウンジャミといわれ、隔年で行なうところもある。旧暦七月に名護以北で行なわれる海神祭。ウンダミ、ウンガミともいう。海神が原義か。安田のウンジャミで中心となるのは海神とよばれる四人の神女。旧暦七月十六日夜、海神四人は二手に分かれて家庭巡りをし、各家で餅と酒を振舞われ、神女はススキまたはダンチクを引換えに渡す。そのとき男子は家にいてはいけないといわれた。

十七日朝、白衣の四人の神女とノロは田名屋の拝殿で神を拝み、拝殿前に東向きに置かれた布の舟に四神が乗って船出の様子をする。そのあと、村外れの高台で別れのしぐさをする。最後は、東海岸の拝所の岩に全員が立ち、神歌を歌い、オーの葉を海に投げ、神送りをする。

写真は拝殿前の船出と最後の神送り。


  

 


 

 ニライカナイ

 

奄美・沖縄で海の彼方や地底にある、常世国(とこよのくに)と信じられている聖なるところ、他界。特に東の水平線の彼方にあるとされる。神々が来訪してこの世の人々を祝福する儀礼や伝説は南島各地にみられ、稲や粟の種子も元来ここからもたらされたとする。奄美ではニルヤ、ネリヤ、八重山ではニーラ、ニール、ニライスクといい、ニライカナイが死語になっている地域もある。

ここからは豊穣がもたらされるだけではなく、村落の悪疫や穢れがここへ送られるという考え方もある。所在地についても東方の海の彼方や海底深くとされるほか、村落の立地条件によって方位が決まるなど地域的違いが大きい。そこから来る神は、アカマタ・クロマタ、マユンガナシのように、具体的に儀礼で仮装した神の形で出現する他、唱え言や手招きするような儀礼的所作で迎えられる場合もある。『世界宗教大事典』平凡社、一九九一年

 

日本人の他界 六種

 

記紀神話や『万葉集』によって、古代日本人のあの世に対する考え方、他界観を検討すると原型は四種存在したことが明らかである。地下他界、海上()他界、天上他界、山中()他界である。地下他界は地の底に他界を想定するもので、黄泉(よみ)・黄泉路(よみじ)・黄泉の国・根の国などのことばで表現されていた。海の向こうに他界を考える海上()他界は、妣(はは)の国、常世(とこよ)の国などと表現された。妣(はは)の国は母の里であり、民族の移動後に故郷を慕う情が生んだ表現であり、常世のとこは永久不変の意味で、海の彼方にあると信じられていた常住不変の国であった。天上他界は高天原(たかまがはら)の語で表される。天孫系民族の祖先神が住んでいたところとされる。山中()他界は死者のおもむく場所を山に想定したもので、日本の古代では有力な観念であった。

のちに、これに太陽信仰と仏教の浄土信仰が結合して、東方と西方の二つの他界が加わる。

ニライカナイはこの六種の他界のなかの海上(中)他界である。奄美のショッチョガマ・平瀬マンカイは東方、西方と方角を異にする海の他界に対する信仰が根底にある。

 

稲作の伝来

 

奄美・沖縄の八月の祭りの対象は多くは稲粟を中心とした豊年祭とよばれる農耕儀礼である。しかし、伊平屋島田名のウンジャミ、安田(あだ)のシヌグ、さらに、知念村志喜屋のハマエークトゥ、糸満の門(ジョー)御願、渡嘉敷島阿波連の三月アシビなど、豊漁祈願の儀礼も数多く伝えられている。糸数(いとかず)城跡から出土した炭化米により10世紀以前には稲作が行なわれていたと推定される。さらに1477年に与那国島に漂着した朝鮮人らの記録によると、当時、与那国・西表(いりおもて)・伊良部・宮古・沖縄本島の各地で稲作が行なわれていた(『沖縄大百科事典』)。伝来経路については、中国からの伝来とする玉城村、アンナン国からの伝承を持つ石垣島などもあるが、大勢は本土からの伝来とされている。

農耕以前の沖縄・奄美の生業は漁業中心であったとみられる。各地に残る漁獲祈願の祭りはその名残と考えられる。

 

アマミキヨとシネリキヨ

 

奄美・沖縄の神話上の創世神。『琉球神道記』(1605)には男神シネリキュと女神アマミキュが天から降臨し、島を固定、往来の風によってアマミキュが孕み、三子を生み、所の主・祝女(ノロ)・土民のはじめとなるとある。『中山世鑑』(1650)には天帝、天城にアマミクを召し島造りを命ずるとあり、『おもろさうし』(1623)には日の大神がアマミキョ、シネリキョを召し島造りを命ずるとある。伊波普猷・外間守善・谷川健一はアマミキョは海人部に属し、稲作をもたらし南下してきた神と考えている。

シネリキョのシネについて、村山七郎は光、外間守善は太陽・日神としている。

アマミキョ・シネリキョは、伊波普猷・仲原善忠は単一神とするのに対し、大林太良は『琉球神道記』の記載などから男女二神とする。(拙著『親日台湾の根源を探るー台湾原住民神話と日本人』勉誠出版、2019年)

 

奄美大島北部アマミキョ降臨の地アマンデー(奄美岳) 笠利半島アマミク神社

  




 

 

                    (つづく)





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