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諏訪春雄通信


838回 (2019年1月7日更新)




 明けましておめでとうございます

本年もよろしくおねがいもうします。新春、多くの方々から賀状をいただきましたが、私の方からは賀状もお礼も出していません。申訳ありません。

皆々様の本年のご多幸を心からお祈り申しております。

    




 

 豊年祭―台湾から日本を見る― (26)

 

 

「台湾原住民は日本人に先行する倭人である」という視点に立つと、日本だけでは解けなかった日本古代史の多くの難問が解決できます。今回考えたいのは、豊年祭とよばれる豊穣祈願の祭りです。

 

台湾原住民社会に豊年祭とよばれる小米(粟)の豊作祈願の祭りがひろく行われています。粟は水田稲作による米の普及が未だに不十分な台湾原住民社会で現在も主食の位置を占めている貴重な穀物です。

 

同じような粟中心の食生活が長く続いていたのが琉球列島でした。例えば、江戸時代から明治にかけて、この地の男子成人に課された人頭税は粟の現物納付でした。粟は水はけのよい畑に適した作物で、石ころの多い山地や傾斜地でも作付けすることできました。台湾原住民の居住地と琉球列島は類似の環境だったのです。

 

この琉球列島にも粟の豊作を祈願する豊年祭とよばれる祭りがひろく行われています。粟の種まきの時期は旧暦の十月から十一月で、収穫の時期は四月から五月の初めでした。豊年祭はその時期に集中していました。代表的なこの地方の豊年祭を紹介します。

 

粟国島のヤガン・ウイミ





          

   石垣島の豊年祭        阿嘉島の六月ウマチー


 


 

      久米島のウマチー       東村のウプウイミ

 

 


 

琉球列島の豊年祭から見えてきたことです。

 

1 神人とよばれる女性巫師が中心となって行なわれる祭りである。

2 占いとしての綱引き、広場での群舞、大漁祈願の競漕などが加わる場合が多い。

3 収穫前だけではなく、収穫後に行なわれることもある。

4 一集落の行事から近隣の複数集落の共同行事に変わってきている。

 

 このような特色のなかで、最大の特質は、男性の関与する割合が増加し、しだいに男性主役となりつつあることです。(参照資料、沖縄タイムス社編『おきなわの祭り』一九九一年)

 

この琉球列島の豊年祭の原型となった行事が台湾原住民の豊年祭です。次の写真は沖縄原住民のルカイ族、パイワン族の豊年祭です。


  


 

 台湾原住民の豊年祭から豊穣祭祀の本質があきらかになります。本土日本はもちろん琉球列島の豊年祭ですらうしなってしまった食物祭祀の本質です。

 

 例えばプヌン族の粟の祭祀は一年間にわたっています。粟の生産過程が彼らの生活の基本リズムを形成しているのです。日常の生活があって祭祀があるのではなく、祭祀が先にあって、そのあとに日常の生活があることが分かります。

 

 プヌン族の暦は粟の耕作と祭りによって決められています。一年は十三か月に分けられていますが、その名称は粟の耕作の進行と祭りが基準になっています。

 

 1 冬月(西暦十月) 各家の男子は祭田に行き、漆の木の端を割って茅の茎を挟み、祭田の中央に挿します。これが新年祭で、このときから新しい一年が始まります。

 2 開墾月(西暦十一月) この月から開墾を始めます。農具の制作や修繕も行ない、前年誕生の幼児のために幼児祭が挙行されます。

 3 追走月(西暦十二月) 薪取りの儀式が行われます。毎日、山野を駆け回り田地から悪霊を追い払います。

 4 作田月(閏月) 本年の粟の煮炊き用の薪を山上から集め、家の薪小屋に積みあげます。

 5 播種月(西暦一月) 酒を造り、祭田播種の祭りを前後五日間挙行します。第一日酒造り、第二日種播き、第三日鍬の休日、第四日炉灰の休日、第五日臍帯の休日。この年に生まれた幼児の臍帯によって粟の収穫を占う。

 6 真正播種月(西暦二月) 粟の種まきに没頭し、祭儀はない。

 7 除草月(西暦三月) 生きた豚を田に繋ぎ除草して収穫祭を行なう。この豚は蔵入り祭のときに供儀にする。

 8 祓禳月(西暦四月) 諸病払いの祭儀を行なう。

 9 射耳月(西暦五月) 打耳祭ともいう。男子は槍を持ち、捕獲した鹿の耳を突いて、本年の狩猟の豊かさを祈願する。

 10 収穫月(西暦六月) 酒を造り、粟の収穫祭を行なったのち、毎日、粟の収穫に努める。

 11 幼児月(西暦七月) 去年と今年の幼児のために祭りを行なう。祭りのあと、両親は二日間田の作業をしない。

 12 入倉月(西暦八月) 祭りが終わったあと、新しい粟を倉に入れ、古い粟の上に積む。古い粟を食べ終わったのちに新しい粟を取り出して食べる。

 13 捕行入倉月(西暦九月) 収穫の遅い粟の倉入りの祭りをこの月に実施する。

 

 このプヌン族の粟の豊年祭の一年にわたる挙行順序から重要なことが分かります。あらゆる文化や芸能は祭りから誕生したことは勿論ですが、その祭りを誕生させ、その形態を決めたものは、食糧の獲得方法であったという事実です。食料の獲得方法を生業とよぶなら、生業こそが祭りと神を生み、文化の形態を決定する根源の力であったのです。(参照、漢芸色研文化事業有限公司『原住民神話与文化賞析』二〇〇三年)

 

 また、日本の古代文化の伝来ルートとして、台湾→琉球列島→九州がきわめて重要であったという私の推定に、確固とした証拠にもなりました。

 

 プヌン族が伝えている豊年祭の由来に関する伝説です。人類にとって食物の獲得があらゆる文化を生む根源となったことをはっきりと示した貴重な伝説です。

 

むかし、一粒の粟でその一家の家人すべてが飽食していました。そのため、当時のプヌン人は、粟をこのうえなく神聖な穀物とみなし、どの家でも一食ごとに一粒の粟を鍋で煮て、楽しい生活を送っていました。

 ところがあるとき、集落のある家に怠け者の女がいました。毎日、食事ごとに一粒の粟を煮ることを面倒に思い、一把の粟を一度に鍋に煮たところ、すべての粟が膨張して鍋からあふれ、女はそのあふれた粟のなかで死んでしまいました。

 それ以降、プヌン人は粟をますます神聖視するようになり、一粒も無駄にすることなく、耕作、種播き、収穫、倉入りまで、多くの禁忌を設け、関連する祭りを挙行し、神の保護を祈りました。(前掲『原住民神話与文化賞析』)




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