私のホームページの容量の関係で、これまで続けてきた「アジア調査の記憶」をしばらく休載します。「諏訪春雄通信」は分量を減らし、「民族文化の会」はこれまで通りに連載します。
「女性祭祀が日本を救う」 (14)
前回に続きます。「女性祭祀が日本を救う」というきわめて重要なテーマです。いまはほとんど忘却されてしまった女性の霊性が日本を救ってき、いまもこの国を救いつづけているという事実です。
Ⅶ 女性と演技
芸能の母胎は憑依型シャーマニズムと祭り
シャーマニズムは巫覡を仲介者に神霊と交流する宗教現象であり、目的は神意の認知にある。大きく二つのタイプがある。
脱魂(エクスタシー)型
○霊魂が身体をぬけ出して神の許へ行く。
○タバコ・麻薬・粉末香などでトランスに入ることが多い。
○採集・狩猟民・牧畜民
○巫病・修行・世襲で入巫
○歌舞・芸能を生まない。
憑依(ポゼッション)型
○神霊が巫の身体に入り込んでくる。
○自身でトランスに入ることが多い。
〇農耕民
○巫病・修行・世襲で入巫
○歌舞・芸能の母胎になる。
日本にも二つのタイプがあるが、中心は憑霊型であり、大きく3類型に分かれる。
1 脱魂型 沖縄のユタなどが入巫儀礼に体験する例がある程度でほとんど
見られない。
2 単独型憑霊
A 霊媒型 自身で神がかりして一人称で語る。
B 予言者型 神を感得し三人称で語る。
3 分業型憑霊 複数で憑霊行為を成立させる。
A さにわ型 神功皇后が神がかりし、さにわ(審神者)にナカトミイカツオミを命じる(日本書紀)。さ庭は本来は神聖な場所の意で、神がかりした人のことばを判断する人。
B ものまさ(尸)型 死者の魂の宿る人で、葬儀に登場する。
C よりまし(依坐)型 悪霊の宿る人で病気治療に登場。
D 護法神型 宗教者が駆使する守護霊。修験道の式神など。
舞いと踊りの区別はなぜ生じたか
シャーマニズムの基本2型のうち、脱魂型は芸能を生まない。
憑依型の構成の基本は、神迎え・神降臨(人神交流)・神送りの3部であり、この構成が芸能を生む。
神迎え→五方の神への祈り(角をとる・旋回) 正調の貴族的音楽 制御された動き 静的
神降臨・神送り→動的 熱狂的 跳躍 庶民的音楽
この神迎えと神送りが舞いと踊りの原型となる。
日本の舞踊史の主流は舞いから踊りへ推移した。その理由は、古代大陸伝来の舞楽とその影響から中世流行の念仏踊りと、その影響下へと推移したことにある。
舞いの特色は以下のようにまとめられる。
古代から中世に成立
「まわる」の意味から旋回運動中心
滑るように足を使い角をとる
意識的に制御された所作
貴族的
静的
京阪
中国最古の辞典『説文解字』には「楽也」と説明する。
対する踊りの特色は次のようにまとめられる。
中世から近世
跳躍運動
両足を大地(舞台)から離す
熱狂的・庶民的
動的
江戸・地方
『説文解字』には「跳ぶ也」とある。
平安中期に空也上人が創始した空也念仏踊りは仏教と巫が結合し、中世に流行し、華美になった念仏踊りとして、風流踊りを生む。お国の歌舞伎踊りは風流踊りを継承していた。
しかし、日本の舞台芸能の基本は、能も歌舞伎も舞いを継承している。
江戸は、徳川家康が荒れ果てた漁村地帯に城下町を作り、元禄には八十万という、当時のロンドンに匹敵する世界一の大都市になった。江戸には共通語が無く、方言が飛びかっていた。舞台でセリフ劇を演じることができない。他方、京都では平安の昔から共通語があり、大坂も京ことばの影響下に共通語が生まれた。上方歌舞伎はセリフ劇として発達し、江戸は身体所作中心で、せりふは文語調という芝居を作っていく。せりふ劇の和事、身体所作中心の荒事はそのようにして誕生した。
対照的な上方と江戸の歌舞伎の演技様式であったが、しかし、上方歌舞伎の和事にも江戸歌舞伎にも根底には古代シャーマニズムの舞いの系譜があった。
能の所作の基本である「カマエとハコビ」も舞いである。
カマエは能の演技の基本。前にやや傾いた姿勢であるが、腰を折って前屈するのではなく、背筋を伸ばしたまま重心を前にかける。そのままでは安定しないので、腰を焦点にして後ろへ引きつける力を加えて安定をとる。外見上では静止しているように見えるその体には、前へかかる力と後ろへ引き付ける力が均衡して、そこに能の美のもっとも大きな要素である安定感と充実感が生まれる。能のすべての所作はこのカマエから発し、カマエに帰結する。
ハコビは歩行の基礎である。床に足の裏をぴたりと付けた摺り足で運歩する。どんなに早く動き回るときでも、この原則は変わらない。ハコビは滑らかでなければならない。左足が止まったときにはもう右足を出すようにして、体全体を腰でまとめ、一枚の重い板を車で押すように移動して行く。ハコビの歩幅・速さ・加速度・強弱などによって舞踊的リズムが生まれ、役の性格が描かれ、劇技表現も行なわれる。極端にいえば、顔や手などの上半身は動かさないでも、能一番を舞い通すことができる。能は本質的には歩行の芸術であり、足袋以外の履物を用いないのもそのためである。(『能狂言事典』平凡社)
歌舞伎は遊女歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎、荒事、和事と推移したが、舞いの演技は継承される。
お国が京都で演じたややこ踊りは少女の振りを伝える小歌踊りであった。念仏踊り、小原木踊り、飛騨(ひんだ)踊りと名称は変わるが基本は風流踊りの流れにあった。しかし出雲大社の巫女を自称したお国の舞踊が完全に舞いから離れたとは考えられない。お国歌舞伎の後継者となった遊女歌舞伎は遊里の張見世としてさらに舞いの要素を強め、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と推移しても、舞いを基本とする演技様式が大きく変わることはなかった。
初代市川團十郎、初代坂田藤十郎によって、荒事、和事という対照的な演技様式がつくり出されたが、両者ともに舞いから離れることはなかった。
(つづく)
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