祭り―台湾から日本を見る― (28)
「台湾原住民は日本人に先行する倭人である」という視点に立つと、日本だけでは解けなかった日本古代史の多くの難問が解決できます。今回考えたいのは、祭りです。
日本の祭りの種類と数は膨大です。私は明確な数値をあげて答えることはできませんが、おおよその数なら提示できます。いま私の手許にある数冊の日本の祭りの案内書や入門書の索引に登録されている数値を一つの目安としてあげてみます。
『三省堂実用 行事と祭りの事典』三省堂 二六〇九種
祭りは年中行事でもあるという前提にたって、つぎに年中行事関係の辞典を資料に利用します。
『年中行事辞典』西角井正慶編、東京堂出版 二六八二種
また、祭りは芸能の上演される場でもあるという理解のもとに、芸能辞典の索引を資料に利用します。
『民俗芸能辞典』仲井・西角井・三隅編、東京堂出版 五一八七種
この辞典は芸能にかかわりのある術語までももれなく索引にひろっているので、とびぬけて多い数になりました。この数値をそのままに信じることはできません。もう一冊、べつの芸能関係の書物を参照します。
『日本民俗芸能事典』文化庁監修、第一法規 一〇六三種
以上、四冊の辞典類の平均数値は二八八五種となります。一つの目安にすぎませんが、このあたりの数値、約三千を現行の日本の祭りの数とみることができます。
これだけ多数の日本の祭りにはどのような種類があるのでしょうか。私は以前に別の論文で東アジア全体を視野におさめて、三つの新しい祭りの分類方法を提示したことがあります(「東アジアの祭りの構造と類型」諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣、一九九八年)。その三種の分類方法は次のようになっています。
⑴ 優勢な経済段階に注目した分類
a 狩猟採集型
b 雑穀型
c 稲作型
d 漁労型
e 混合型
(2) 主要な祭神に注目した分類
a 自然神型
b 精霊神型
c 祖先神型
d 国家神型
e 混合型
(3) 優勢な体系(文明)宗教に注目した分類
a 民俗宗教型
b 道教型
c 仏教型
d 儒教型
e キリスト教型
f イスラム教型
g 混合型
この三種の分類法は東アジア、ことに中国に焦点をあてて考案したものです。そのために(3)で、b道教型、d儒教型、fイスラム教型を独立した項目に立ててあります。日本の祭りだけの分類ならば、(3)の道教型、イスラム教型などははぶいて、民俗宗教型をもっと精密に分類したほうがはるかに現状に適合したものとなります。またこの三種の分類法は相互に互換性があって、同じ祭りが三種それぞれに分類される可能性があります。
このように、概算ですが、日本の祭りの数と種類をこれまで知られている資料で導きだすことはできます。しかし、この日本の祭りの原型はどのようなものであったのか、それがどのような変化をとげて、これだけ多種多様な祭りになったのか。この重要な問題を本土日本の資料で答えを出すことはできません。それを解く鍵が、台湾原住民の祭りにあるのです。
この通信838回「豊年祭ー台湾から日本を見るー(26)」で、プヌン族の豊年祭を紹介し、次のようにのべました。
このプヌン族の粟の豊年祭の一年にわたる挙行順序から重要なことが分かります。あらゆる文化や芸能は祭りから誕生したことは勿論ですが、その祭りを誕生させ、その形態を決めたものは、食糧の獲得方法であったという事実です。食料の獲得方法を生業とよぶなら、生業こそが祭りと神を生み、文化の形態を決定する根源の力であったのです。また、日本の古代文化の伝来ルートとして、台湾→琉球列島→九州がきわめて重要であったという私の推定に、確固とした証拠にもなりました。
この台湾原住民の祭りから見えてきた祭りの変化の第一は大型化です。下はプヌン族の9月の射耳月(西暦五月)です。男子は槍(火槍)で、捕獲した鹿の耳を突き、本年の狩猟の豊かさを祈願します。
変化の二つ目は娯楽化・芸能化です。左ルカイ族、右アミ族の豊年祭です。
変化の三つめは挙行間隔の長期化です。下の写真はパイワン族の五年に一度の大祭五年祭です。
変化の四つ目は生業を異にする祭りの独立です。下の写真左はヤミ族の海神祭、右はプユマ族成年男子の大猟祭です。
そして五つ目のもっとも大きな変化は女巫に代わって男巫が祭祀の主宰者となることです。下の写真は男巫が主宰するツォウ族の戦士祭です。この変化は重要ですので、次回以降にも詳述します。
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