ヘッダーイメージ 本文へジャンプ

諏訪春雄通信


859回 (2019年6月10日更新


 


 「女性祭祀が日本を救う」 (16)

前回に続きます。「女性祭祀が日本を救う」というきわめて重要なテーマです。いまはほとんど忘却されてしまった女性の霊性が日本を救ってき、いまもこの国を救いつづけているという事実です。


 Ⅷ 祭りにおける男女の役割分担

―日本の祭りから女性が排除されたのはなぜか―

儒教では、『礼記』「郊特牲」に「婦人は人に従う者なり。幼くして父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死すれば子に従う」とあり、『儀礼』「葬服伝」に「婦人に三従の義があり。専用の道(自分で判断する行為)はない。故に未だ嫁さずしては父に従い、すでに嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う」とのべる。

 

血の穢れと女性祭祀

 

仏教や儒教の浸透に合わせて、日本社会に女性の血の穢れという観念が生まれてきた。『日本民俗大辞典』「血穢」(吉川弘文館)から引用する。

 

「女性特有の出血である月経と出産時の荒血は、穢れたものとみなされてきた。これらは赤不浄・アカビなどとも称され、死の黒不浄とともに忌むべき大きな穢れとされた。産の穢れを白不浄と呼ぶ地域もある(中略)月経・荒血に限らず血を穢れとする観念は、当初、神社・神事の禁忌として現れた。古くは血は豊穣をもたらすものとされたが、死穢を連想させるためか次第に忌まれるようになり、九世紀中ごろに穢れとされるようになった。」

 

血盆経と血の池地獄

 

このような女性の血の穢れ観に拍車をかけたのが中国で成立して日本に伝来した『血盆経』であった。この経では女性だけが堕ちる地獄を次のように説く。

 

仏弟子の目連尊者が、血盆池地獄を見る。ここは、出産時の出血(および月経)で地神を穢し、また血の汚れを洗った川の水を人がそれと知らずに汲み、茶を煎じて諸聖に奉り、不浄を及ぼしてしまう罪によって、女性だけが堕ちる地獄であった。母の恩に報いるため、目連は獄主に(または仏所に赴いて仏に)この地獄から逃れる方法を問う。獄主(または仏)は、血盆斎を営んで僧を請じ血盆経を転読すれば、血盆池中に蓮華が生じて、罪人が救われると説く。

 

この経は、10世紀宋代以降に中国で民間仏教経典として成立したとみられる(ミシェル・スワミエ「血盆経の資料的研究」、『道教研究』1、昭森社、1965)。

 

血盆経は日本でも室町時代に受容され、日本の各地に存在する”血の池地獄”はこの信仰による。中国では、目連を主人公とした目連劇が発達し、中元の死者供養劇として、民間でも広く演じられ、そのなかでも火の河、水の河の二河を亡者が渡る場面はきまって取り上げられた。

 

下の写真は中国四川省綿陽市の目連戯である。火の河を渡る目連の母劉氏。赤い衣装は身を火に焼かれていることを表す。三瀬川(三途川)は、三つの瀬があり、奪衣婆がいて亡者の衣装を剥ぎ取るという観念は早く中国の唐代の『十王経』にあったが、目連戯では、どうするか逡巡する意味の奈河と呼ぶ。亡者は生前の罪により、最高の善人の渡る黄金の橋、次の善人の渡る白金の橋、悪人の渡る奈河橋にふり分けられる。奈河橋の下には鉄の犬や銅の蛇が待ち構え、落ちてきた亡者を責めさいなむ。『血盆経』はこの火の河を血の河に変えた。





 

血の池地獄は別府、立山などで観光名所として見ることができる。下は別府温

泉の血の池地獄。


 

 


 

 

『血盆経』の教えは中世以降日本の仏教寺院にも採用され、その教えを説く寺院が増えた。千県我孫子市の正泉寺はその代表である。

 

我孫子市正泉寺(曹洞宗)は、江戸時代中期頃から血盆経信仰の唱導活動を積極的に行なった寺院である。北条時頼の娘法性尼の開基と伝え、もとは法性寺と称した。法性尼の霊の告げで、住職が近くの手賀沼から血盆経を得、寺号を正泉寺と改めたという血盆経縁起を伝えている。正泉寺の前身、法性寺(宗派不明)の長老の母が血盆池に堕ち、母を救うために長老が血盆経を書写したという。正泉寺では、血盆経出現縁起や血盆経本文を多数版行しており、血盆経霊場として広く知られるようになった。地蔵菩薩を血の池地獄の救済者とする。

中世期に血盆経信仰を受容していた宗派は、天台宗・臨済宗・浄土宗・真言宗が挙げられる。(高達(こうだて)奈緒美「血盆経信仰の諸相」2002年 「東シナ海周辺の女性祭祀と女神信仰」研究会 」)

 

宮中祭祀の清浄と不浄

 

大勢が女性の不浄をうたう時代を迎えたにもかかわらず、なぜ、宮中では、宮中三殿で女性祭祀を守りつづけたのか。内掌典とよばれる女性の神子が生涯に渡って神事に奉仕する宮中祭祀で浄と不浄はどのように考えられているのか。

 

アマテラスをはじめとする祖先神、全国の八百万の神々を祀る宮中祭祀では、清浄を「清(きよ)」、不浄を「次(つぎ)」とよんで区別している。次は塩、水、手ぬぐい、水で濡らした和紙などの助けを借りて清の状態を復元する。その区別はおおよそ次のようになっている。

 

清 清の衣服、御殿、内陣、清い道具類

次 下半身、腰巻、足袋、財布、お金、郵便物、書類、宅配便、まけ(生理)、よそよそ(お手洗い)、常用の化粧品、常用の道具、あせ(血)、口のついた食物、死

 

清と次を別ける根本則は《内と外》である。内陣とよばれる神々を祀る場、そこにいます神々から近いものは清、遠いものは次とされる。空間と心理の両面に関わる観念であることが分かる。下半身、排泄物、血が次であるのは神を認識し身体に宿らせる霊性から離れているからである。内と外の関係は絶対・不変ではなく、次、次める、清めるなどの表現から明らかなように可変的で段階的である。血はそれ自体が次ではなく、霊性の存在する女性身体から離れて外部に流出したときに不浄とされる。(高谷朝子『宮中賢所物語』ビジネス社、2006年)

 

台湾原住民の女性祭祀

 

ここで日本の古代文化の原型を伝える台湾原住民文化にもどってみよう。

台湾原住民のパイワン族は彼らの住居を「女性子宮」の隠喩でよぶ。(『神々の物語』二〇二ページ)。ルカイとプヌンは、女性が出産のときに、男性はかならず家の外で待機する。それでも難産が続く際には、家屋を廃棄して別に新屋を建てる。出産のときに住居は完全に女性の空間となる。

日本の産屋については、仏教、儒教の浸透による、出産時の血の穢れを避けるためという説がある。しかし、仏教も儒教も存在しない台湾原住民の習俗に照合すると、妊婦が大地母神と一体化する時空を神聖化する信仰に由来するものであることが分かる。

 

日本は、女神信仰に起源を持つ女性の霊性が守ってきた国である。仏教や儒教の女性差別思想、欧米流男女平等観などの浸透で、姿を消したはずの女性祭祀が、伊勢神宮斎宮、宮中祭祀として継承され、伝統的家庭で女性の管理する神々が存在することも、女性の霊性ぬきに説明することはできない。

 

女性祭司、女帝、ヒメヒコ制など、大陸、台湾原住民、日本古代に行なわれ、そして現在もこれらの社会で保存され続ける女性の霊性に対する信仰は、大地や海に依存して生きてきた人類が普遍的に育ててきた大地と女性に神を見る信仰の表現であった。

                     (つづく)

 

 

 

 





諏訪春雄のホームページ



フッターイメージ