中国では絆が大切  
   
      神戸を出て2日目の朝、日の出を見ようと甲板に上がる。
   すでに何人もの人が東の空に向かってカメラをかまえていた。
   まだ薄暗い中 、 海を覗いてみれば、昨日までの紺碧の海はどこへやら、
   茶色く不透明な海が広がっている。実はそこはもはや海ではなく、大河
   に入っていたのである。 次第に両岸が姿をあらわし川らしくなってくる
   と、薄汚れた建物や、そこで働く人たちが蟻のように小さく忙しく動き
   まわる姿が見えてくる。そこはコンピューターで管理された日本の工場
   とは違い、人間が動かしているという力強いパワーがあった。
   黄土色の埃のせいか、空気全体がセピア色に包まれて、古い映画を見て
   いるようだ。
   丸2日間も船に乗り、いよいよ念願の大陸に着くというのに、港に近づ
   き船がスピードを落とし始めるにつれ、だんだん不安が募ってきた。
   正直言って、なんでこんなところに来てしまったのかと後悔しはじめて
   いた。  
船の中で、ホテルの予約が出来るようになっていたが、それに気付いた
時には受付を閉めた後だったので、そこに書かれていたホテルの名前と
 近くにある目印になる建物をメモしておいた。 下船前はビザを取るのに思いのほか時間がかかり、私たちが船を降りた 頃には船中で顔見知りになった人たちは、大陸に飲み込まれ、ちりじり  になって姿はなかった。   まずは落ち着くホテルを探すことになるが、朝食 の時に一緒だった中 国人のおじさんに教えてもらっていた、港の近くのホテルに行ってみた。 それにしても暑い。新調の鞄がみるみる埃と路上の汚物にまみれてゆく。 まったくとんでもない所に来てしまったものだ。 成田から一気にロンドンへ飛べば良かった。 ホテルに着くと、親切な大学生が私たちのために交渉してくれたが、 最初から『メイヨー』つまり空室はないという。 港でのホテル探しを諦めなければならなかった。 見知らぬ大きな国にポーンと放り出された気分で急に心細くなってきた。 さて、あとは船中で書き留めたホテルに行くしかない。 ホテルの名前と、 近くに《上海体育館》の近くということがわかれば、とりあえず充分だろう。 しかしどうやってそこに行ったらいいのか見当もつかないのでタクシー に乗ることにする。まずは用心して乗車する前に値段の交渉をする。 船の中で書き写したメモを見せれば、こちらの行きたい所は伝えられるが、 値段を尋ねると言っても英語も日本語も通じないし、まだこちらはそこま で高度な中国語はマスターしていないから、中国語の会話の本を出してき て四苦八苦していると、通りがかりの英語がわかる人に助けられ、やっと のことで、15元かかるということが判明、それが日本円で幾らなのか、 高いのか安いのかわからなかった私たちだったので、炎天下の中、時間を かけて無意味な交渉をしていたわけだ。 とりあえず、それで納得した私たちはタクシーに乗り込むが、目的地はな かなか遠い。へんな所へ連れていかれぬよう祈るのみで外の景色を見る余 裕などなかった。 タクシーが止まったのは、町中を通りすぎて、郊外のような広々したとこ ろだった。 タクシーが車寄せに止まるとすぐに、蝶ネクタイをした男の人たちが2〜 3人駆け寄ってきた。私たちが泊まるのはこの手のものではなく、ランク がもっと下のはずである。一応、宿泊料金を聞いてみると答えは20元、 タクシー代と変わらないし、どうも安いみたいだ。とりあえず第一日目 の宿はここに決めた。ここにはテニスコートもプールもある。 中に入ってみると、吹き抜けの大きなホールがあった。 そして、そこに は《運動員之家》と大きく墨で書かれていた。または英語で《SPORTS HOSTEL》・・・・・? そう、ここは実はホテルと言うよりはホステル、つま りは体育間で合宿する選手たちの宿泊施設のような所だった。 しかし通されたツインルームは冷房も入り、中国風の家具が収まった落 ち着ける部屋だ。日本の旅館のようにポットにはお湯がたっぷりあり、 カップには中国茶のティーバックが入っていたのが何よりもうれしかった。 予定とは違うホテルだが、言葉が通じなかったおかげでここに連れてこ られ、その縁から、この先の中国の旅の間、苦労のない、充実したもの となったのだから、タクシーの運転手さんに《謝謝》  ホテルも決まって行動をさっそく開始。街に出る方法をレセプション の王さんに尋ねると、なんと親切なことにバス停まで送ってくれた上、 バスが来るまで待っていてくれた。王さんは長身で男前だったので、私 もむらやんもすっかりうっとりしてしまい、バスの中からいつまでも手 を振り続けた。 上海の街は、半透明なセピア色に包まれて、異国というよりはむしろ、 50年前の東京にタイムスリップした感じがしてなつかしい。 顔つきは似ているのに服装や髪形のせいであろうか、異質なものを感じる。 どうも自分が浮いている。私が生まれる前の東京の様子を覗いている気が する。人に話しかけようと思っても、今と言葉遣いが違うだろうし、話題 なんかもついていけないだろう・・・なんてとりとめのないことをぼんや り空想してみるが、現実に戻れば私たち以外は皆、漢民族で、中国語を話 すわけだ。 この中国語こそがチンプンカンプンで、船の中で一夜漬けしたぐらいでは 役に立たず、世界で最も難解な言語に思えるのだが、ところが、紙と鉛筆 さえあれば、おおかたの用が足りてしまう。漢字という媒体を通して意志 の疎通がかなうのだ。これまで同じ文字を共有していた事に、あらためて 気付いて嬉しくなる。 ラテン語、例えばフランス語とスペイン語は似てい るし、英語とドイツ語はもちろん、異質だと言われているギリシャ語だっ て共通の語源の単語がたくさんあるのだから、ヨーロッパ人が3カ国や5カ 国話せても不思議ではない。 日本は島国だから、単一民族で独特の文化を 持ち、日本語というのは他の言語とは異なり、孤立してきたように思って いたが、驚くほど大陸の文化、影響が大きい。漢字という共通項のお陰で、 我々は古いつきあいの友達であったという親近感が強くすると共に、心強 い仲間がいた事を再認識した。 その筆談を交えて街の中に、未来からの見学者としてではなく、生活者と して仲間入りさせてもらうと、毎日が生きるための戦争で、すっかり夢中 になっていった。 バスに乗るため、停留所で並んでいる人の列は何処が前 で後ろかわからない。見ていたらその両側から人はやって来て、待っている。 そしてバスが到着すると一気に人々はドア目掛けて突進する。中は汗にま みれたどろどろの世界。そのなかで車掌さんを探し切符を買い求める。 こんなことだけで私は東京では味わうことのなかった充実感に浸っていた。

    次の目的地、桂林に行くための列車のチケットは、安易な方法だったけ
   どホテルですんなり手に入った。
   後はどこにあるか見当もつかない上海駅を目指し、重い荷物を持ってバス
   に乗り継ぎ、予約した列車に乗るだけとなったが、馴染みになった宿
   《運動員之家》を後にして、途方にくれていると、ホテルの従業員の毛さ
   んが仕事を終えて帰宅するところで、駅までの道順を尋ねると、一緒につ
   いてきてくれることになった。
   駅に行く前に食事がしたかったのでパークホテルの眺めの良い階上のレス
   トランに連れていってもらった。お礼に一緒に食べましょうと食事をすす
   めても、「家に夕食の用意がしてあるから。」と言って手を付けようとは
   しない。二人だけで食べるのも気が引けるので、一生懸命すすめてやっと
   少しだけ食べてもらう。 階下の土産物屋を覗いていると、毛さんは私たち
   に一つづつ、小さな犬の形をした櫛を差し出した。思いがけない贈り物だ
   った。
   
  長い長い車両の中から毛さんは予約した席を探してくれ、荷物まで運んで くれた。  毛さんはその時、2年後に日本に行って勉強がしたいと言って いた。まだ日本と中国の間に経済の格差があったころである。正直言って それは難しいのではないかと思ったのだが、実際それからきっちり2年後 に毛さんは日本にやってきた。私がイギリスに留学したのとほぼ同じ頃で、 すれ違いになってしまったが、私の両親と仲良くなって、あれから両親だ けは何度か上海に行くことになった。 毛さんは約6年日本に滞在し、今は 上海に戻り、日系企業で働いていて、出張で来た折りなど、必ず家を訪ね てくれる。     
  私たちが取った席は軟座の寝台車で、これから一日半の列車の旅、同室 の友となるのは60才くらいの大陸風おじいさんと、南方系風貌の青年だっ た。 私たちはまだ神戸を出てからの新しい体験に興奮冷めやらず、列車が走り 出すまでおしゃべりに花を咲かせていて、ようやく我に返った頃、南方系 中国人が突然完璧な日本語で話しかけてきた。 実はこの人こそが中国人のふりをした(本人にそのつもりはないようだが) 武藤さん(れっきとした日本人)で、この先私たちを桂林、そして広州ま で導いてくれた、北京に留学している学生だった。 武藤さんはその風貌だ けでなく、言葉の方も上手で、車内での食事など、世話になった。そして、 彼も桂林に行くところで、そこには友達がいて、一緒に行きませんか、と 言ってくれる。 これで、桂林での宿探しなどの心配もない。なにしろ、 友達は旅行会社を やっているということなので。 さて、この列車はかなり長い編成で軟座の寝台は全体でも一両のそのまた 半分しかなく、後の半分は硬座の寝台、そして残りのすべてが硬座の座席 である。鶏なども乗っているらしく、席がなく立っている人もいるので贅 沢は言えないが、私たちのこの寝台も決して居心地のいいものではなかっ た。真っ白いカバーをしたベッドが4つ上下二段づつあり、私にあてがわ れた上段はとても高い位置にある。そこに登るための梯子などなく、ある のはマッチ箱程度の足を掛けるためのステップが壁に付いているだけ。 だから体力のない者は上がれない。そしてベッドはたった二本のベルトの みによって支えられている。高所恐怖症の私は下を見ると目がくらみ、ま た、二本のベルトの隙間から、するりと体が下に落ちてしまうのではない かと心配で、第一夜は一方の壁にしがみついて安眠どころではなかった。 そしてなんと言っても一番辛かったのは暑さだった。 地球上もっともっと暑い国はたくさんあるのだろうが、私の知る限りでは 今、ここが一番暑く、気が遠くなる思いがした。 コンパートメントの中 に はポットが備えつけられ、女性の車掌さんが、お湯を入れていってくれる し、カップも備えつけられてあるのだが、最初にお茶葉が入っていた以来、 足されることはなかったので、限りなく白湯に近いお茶を飲み続け、水太 りになっていった。 それはともかく、車窓に広がる風景は稲穂の目が痛くなるほどの切ない緑 におおわれ、美しい田園風景が展開されていた。同室のおじいさんは梨を 分けてくれるし、隣の部屋のお兄さん達からスイカをいただいたりと、 楽しい道中になった。 上海を出て二日目の朝、列車は桂林に入った。 山の中ではあるけれど、都会の上海よりもむしろ観光ずれしている印象 があった。香港から比較的近いため、そちら経由から観光に入ってくる人 も多いのであろう。 武藤さんの友達、張さんは、一日目からめいっぱい町中や近くの自然がつ くった景観を案内してくれた。 二日目はメイン・イベントの、璃江を小舟で下り、桂林特有の山々を巡る ツアーに参加。その日は薄曇りの天気だったがそれがかえって水墨画の世 界を引き立てていた。 その夜は張さんの家に招かれた。ご馳走はテーブル からこぼれそうなぐらい並べられ、魔法瓶(?)の中にはビールが入って いた。張さんのお母さんのお手製の料理はどれも 美味しくて、特に細い干 した筍を炒めたものが、印象に残った。 次の日、広州行きのチケットを持って現れるはずの張さんが姿を見せない。 さらに待っていると、張さんのお母さんがやって来て、朝、急に胃が痛み 出した張さんは、今入院しているという。さっそくお母さんについて行き、 お見舞いに行った。 後日来た手紙によると、原因は疲労によるものだったらしく、すぐに退院 し、大事には至らなくてよかった。 あいにく、広州に行く飛行機も列車もいっぱいで、もう1〜2日長く桂林に 滞在することになった。  ホテルの部屋はドミトリーで、いろいろな人が ごちゃまぜだ。 メンバーは私たちの他に、武藤さん、日本から来た大学生 二人、そして香港から来た高校生、ラン(羅)ちゃんと、サン(新)ちゃ んである。 最初、とっつきにくそうだった、ランちゃん、サンちゃん は、むらやんが 先に友達になって、後で私も仲間に入って一緒にトランプしたり、映画を 観たり、食事に行ったりしてすっかり仲良しになった。 ウォークマンのイヤホンを常にして、不良っぽく見えた二人だったが、意 外に古風な趣味があり、お土産屋に売られていた、石に桂林の風景を刻ん だものなどを、丹念に見て歩き、買っていた。 とにかくこの二人、素直でとても明るい。人への心遣いもこまやかで、 しっかりしている。 ようやく切符の手配も済み、明日が桂林を出て広州に向うという晩、私た ちが広州の後、香港に行くことがわかると、彼らの予定を繰り上げて、香 港を案内してくれるという。 その申し出は嬉しいが、ここで問題なのは、 待ち合わせの日時と場所を決めることだった。 なにしろ、私たちは香港は初めてで、場所の見当もつかない。 そして今更ながら気が付くと、私たちのあいだには言語が存在しなかった。 実はそれまでお互いの言語を勝手にしゃべっていただけで、なんとか筆談 と想像力だけで結ばれていたのである。彼らとは、英語で話しても、日本 語の発音と中国式の発音には隔たりがあり、エア・プレインと言っている のが、私たちにはエレファントと聞こえてしまうので、4人で頭をひねり まくり、話がちっとも進まない。会議は、時には困り果て黙り込み、糸口 をつかんで理解すれば喜びあい、長い時間を費やしてなんとか決定した。 さあ、4人は無事、香港で会えるのであろうか!?  
  武藤さんも同じ方向 (香港)へ行くということで、一緒に早朝ホテルを 出る。 調達したチケットは列車も飛行機も使わず、バスで梧州まで行き、 そこから船に乗り翌朝広州に着く。 その夜行の船はとても簡素だ。私たちにあてがわれた寝床は押し入れの様 な構造で、二段式になっていた。奥行きが2メートルぐらい、幅は60セン チ位の鶏小屋風だ。マットレスなどもちろんなくて板の上にゴザが敷いて あるだけ。 でも、私はここがいたく気に入った。横になると、頭のところにある窓か ら外が眺められ、川沿いの家々の明かりがきらめいて、川の流れに身を任 せ眠りにつくのだ。それは次第に夜の夢の中へ引き連れて行かれるような ロマンチックな船だ。ガラスの窓を開けると更に風が心地よく、私はこの 窓を全開にして最高の眠りについた。   広州で武藤さんと別れ、彼が教え てくれたホテルに迷わず泊まる。 ここから香港まではあと一歩。そのチケットもすんなり手に入れ、美味し い広東料理を堪能した次の日、風邪をひいて熱が出た。39度ある。 すぐに薬を飲んだのだが、よけいに具合が悪くなる。とにかく暑くて仕方 がない。おそらく、暑さと疲れとこの広州に来る途中の船で、窓を開けて 寝たことが祟ったのだろう。 その日一日大事をとって、休むことに決め、むらやんには一人で観光に出 てもらった。 熱のせいで眠ることもできず、どうにかこの窮地から抜け出すことは出来 ないものかと考えあぐね、閃いたのが、清涼油療法であった。清涼油とは、 タイガーバームやメンソレータムのような代物で、かなり強烈な塗り薬で ある。 これを塗るとスーッとする。これで少しは涼しくなると思い全身に 塗りまくる。まだ物足りなかったので、中ぐらいのサイズの缶の半分を使 う。そのうち熱さも引いてきて、うん、これはなかなかいい感じ!・・・ と思いきや、今度は急に冷えてきた。一気に体のまわりから冷えてきて、 手当たり次第、タオルケットや服を重ねても暖かさは感じない。かえって 体に布が触れると冷たさを感じる。 身をこごめて待つこと1時間、次第に冷たさも消える頃、体の中の熱も中 和され(?)体調も回復してきた。(嘘のような話!)   そのうち、むらやんも、珍しい果物を手に戻ってきた。むらやんはその日、 街を見学して、お医者さんに行ったそうである。足にボツボツしたものが 出来、それで気功の先生を尋ねて治療を受けたらしい。驚いたことに、 すぐに治ったということだった。 その日、彼女はそれ以上を語らなかった。 以下は口の堅いむらやんが、後日(数年後に)語った話である。 その時彼 女はなにか悪い病気にかかっているのではないかと、実は密かにとても心 配していたらしい。それで思い余って医者に行こうと決意する。 街を歩いていると看護婦さんが立っていたのだそうだ。そこでピーンとき たむらやんはその家に入ってみたところ、そこに気功の先生が居たわけだ。 その治療費は幾らぐらいしたのかと言えば、日本円にして、120円だった。 その安さに驚いて聞いていた私にとうとう沈黙を破って更に語ってくれた。 なんと、その時、その120円を、100円に負けさせたということであった。 むらやんはやっぱりすごい人だと思った。  香港へ向う国際列車は近代的で、これまでとはずいぶん勝手が違う。 乗客は香港人ばかり。その人達に広東語を教わって、あっという間に香港 は九龍島へ。 車内で知りあったアメリカ人夫婦が泊まるという宿に、バスに乗ってつい て行くと、そこは家族経営の小さな安ホテルであった。  いよいよ今日は 桂林で知りあったランちゃん、サンちゃんに会う日。 場所はネーザン通りのミラマーホテル。 待つこと15分、あきらめかけてコ ーヒーでも飲もうとメニューを開い ていると、そこへばたばたと、飛んできた二人あり。 まさしく、ラン ちゃん、サンちゃんだ。遅れて悪かったと謝っている。サンちゃんが 寝坊したと言っているのが、手にとるようにわかる。 その日は終日案内してくれ、夜はランちゃんの家にお邪魔する。ほとん どの人が高層アパートに住んでいて、鉄の頑丈な扉がある。香港に住む 彼らは、我々日本人と同じファッションで、昨日までいた中国とはずい ぶん生活が違う。でも香港が中国と陸続きであるように、根っ子は大陸 にある。  いよいよアジアには別れを告げて、ロンドンに旅立つ日も、時間があ る限り案内してくれ、空港まで見送ってくれた。 back