エーゲ海プカプカ紀行

(7月23日)成田から

成田から定刻通り、朝10時ジャストに離陸。
タイ航空は初めて。考えてみたら、ヨーロッパへのアジア便も初めてだった。
スチュワーデスさんがきれいだ。 機内はガラガラで、全員が十分横になれるくらいだったが、昼間なので寝るつもりはなかった。
機内食はやはりおいしくなかった。タイ料理を出してくれればいいのに。 映画を二本見て到着。 ・・・とは言っても、ここはまだプーケット。海がすぐそこに迫った場所に空港がある。そこで一時間強待って、再び同じ機に。

そしてバンコクに到着したのは現地時間の18時だった。 出発は24時35分。 それまでだいぶ時間があったので、暇つぶしに空港内を見学。 もしかしたら、今まで私が見た中で一番広い空港なのでは? 長い長い通路に並ぶお店、デューティーフリーショッパ―ズ。 その中に、銀行やマッサージの店など。 下の階は雰囲気が違って、そこで長く待っている、主にアラブ系の人たちが床で休んでいたりした。
お店などは、24時間営業ということだった。眠らない空港なのだな。 一通り店を見て、レストランを探したが意外にも少ない。
何か匂う!ふと上の方を見たら、何の看板も見当たらないが、レストランがありそう。
エスカレーターであがっていくと、果たしてそこには、私が思い描いていた、タイフードのレストランに近い、でも品数が少ない店があった。
アメリカンな食事やサラダに混じって、いい匂いのスープヌードルの釜を発見、それを
を注文した。これが、理想に近いビーフンの麺だった。
ヘビーな機内食に比べ、あっさりとした味で、とてもおいしかった。
フルーツもたくさん買った。親切に切ってあってすぐ食べられるようになっている。 pomeroという柑橘系の果物(ザボンのような)。マンゴスチン、ランブータン、すいか。 デザートにたくさん食べる。かなり満足。(かなり大量!)
シャワーを浴びる予定もあったが、ベッドの表示はあれども、シャワーのマークがない。風邪でもひいたら困るので、シャワーへのこだわりは捨てた。
そのかわり顔を洗うことにした(!?) そうこうしているうちに、予定の時間になった。

ゲートに行くと、なんと!!! 出発が遅れている。しかも4時間も!!!!! 24時半発の予定が、朝の4時になるのだから、これはかなり辛そう。
そうか・・・アジア便というのは、こういう試練もあるのか。 各地からタイに集合して、ここからまたそれぞれの目的地に向かって飛ぶわけなので、どこからか来た便が遅れたのか、これから乗る便に不備があったのかはわからなかったが、 急ぐ旅ではないので、さっさとあきらめて、対策を練る。
23時の空港は、今がピークとばかり、たくさんの人でごった返す。 各国の言葉が行き交い、案内の放送がひっきりなしで、寝るような状態ではない。 こんな中にいるのもけっこうつらい。
タイ航空のお兄さんをみつけ、どこか休むところはないか聞いてみる。 すると、すぐそばにあったタイ航空の別 室に入っていてもいいという。
室内はソファがいくつか置かれ、外の喧噪とはうって変わって、静かで仮眠くらい することが出来そうだ。 大きな窓があり、闇夜に明かりが灯る滑走路の様子がよく見える。

さあ、この部屋はいったいどんな人が出入りする場所なのか。 しばらくそこにいると、何かワケアリの人たち?なのか、係の人に連れてこられて、また外に出ていく。 国籍も年齢も性別も不明な人が(多分アジア系お年寄り)ソファで横になっている。 よく真相は分からなかったが、車いすの人などが待機する場所のようであった。
そこは居心地がかなり良かったが、私はもっといいことを考えていた。 それは、この待ち時間を利用してタイ式マッサージを受けることだった。
コースは様々あり、私は足と全身の1時間コースにした。 値段は2500円くらいだったと思う。 けっこう乱暴な、痛キモチいいタイプのマッサージ。 でも、おかげで心も体もすっきりする。
ちなみにその間、例のワケアリの待ち合い室でデジカメの充電までさせてもらった。
そんなことをしたり、少し寝てみたりしているうちに出発時間となった。



アテネに到着(現地時間、7月24日、10:35)

アテネは覚悟したほど暑くはなかった。 荷物を受け取ると、4か月前の旅行で買ったスーツケースの鍵が壊れていた。 壊されたのか壊れたのかはわからないが、中の荷物は無事のようだった。
一応空港でクレームをつけたが、わら半紙に簡単なタイプを打って、そこに鉛筆の手書きでかいた電話番号が書き込まれ、Mr. ガルビスに連絡しろという。(この話の続きは、Mr.ガルビス編で)

次に向かったのは空港内の、オリンピックエアーのカウンター。
最後にクレタから飛ぶ便だけは確保しておきたかった。
8月14日にアテネを出るのである。その便に間に合わないと帰れない。
8月のギリシャは混み合っているという。天候などの心配も少しある。 余裕を持って二日前ににアテネに着くように、イラクリオン(クレタ島)から アテネへのチケットを買った。 (後日クレタに着いてから、一日延ばして13日にアテネに着くように変更したけど)

エアバスでシンタグマ広場に向かう。
(帰り:最終日:もこのあたりに宿泊すれば、エアバスもあり便利。)
ホテルは広場から5分程の、教会の横。8月に宿泊する分も予約する。 まずは考古学博物館の行き方を聞くと、年内は休館だという。
あ~~~~っ!そんなばかな! 10数年前に来た時も休館日。 なんて縁がないのか。 仕方がない。また来るしかない。 オリンピックまでに準備しているのかな。

次は島への船の券を買いに行く。 ホテルの回りにいくつかトラベルエージェンシーがあった。 行きたい島をいくつか言い、それらをつなぐ便の状況を聞くと、毎日のように頻繁にあるというので、候補の中で、一番アテネ寄りの島、シフノス島までのチケットを買う。 明日の16時の出発だ。

ギリシャに来たのはかなり久しぶりだ。 他の国はたいてい何度か行っているのに、ギリシャだけはチャンスがなかった。
以前はアテネに何泊かして、アクロポリス、新旧のオリンピックスタジアムや、無名戦士の墓などに行った記憶がある。 その時は6人だったので、大勢で食べる食事は楽しいものだった。 島は、ミコノスとアンドロスに行った。全部で10日近くだったかな。 アテネに関しては、泊まったボロ~いホテルは覚えているが、それがどこにあった のかわからない。
旅行中の思い出はいっぱいある。
バックパッカーとまでは言えなかったけど、自由にヨーロッパを放浪していた頃 である。 現在もそこここですれ違う若者たちと同じ目線で旅をし、すぐに誰とでも友達に なり、情報を交換しあっていた、今では眩しい思い出なのだ。
その頃にはもどれないけれど、できれば、カバン一つが財産で、何も縛られること なく旅する気分だけでも味わいたい。
しかし、まだ私の頭の中には仕事のことが頭の中から追い出せない。
果たして、自分はこの旅行中に解放されることができるのだろうか。

そして、もう一つの思い出は、お腹の調子が悪くなったということもあるが、 食べ物が辛かったこと。
いつもオリーブオイル漬けで、食に対して貪欲で好奇心旺盛な私が、食に興味を 失った地であった。

地下鉄でピレウスまで行ってみることにしいた。
シンタグマから30分ほど。
あの時もこうしてピレウスに行ったのか。
ピレウスは日陰がなくて、暑い! 港の雰囲と地下鉄の所要時間をチェックして、シンタグマに戻る前にオモニア広場で降りて街をぶらつき、 プラカ地区のレストランがずらりと並ぶ通りに行く。
全てのレストランが道にせり出し、オープンテラス。
日本にこんなストリートがあったらかなりオシャレな人気のスポットになること だろう。 その一つの呼び止められたところに、簡単すぎるが入ってしまう。 とりあえず定番の品々を注文。 量がわからず、注文しすぎてしまい、半分ほどしか食べられなかった。
タラモサラダや茄子のサラダ、ムサカとチキンのローストなど。
しかし、この一回の食事を食べ終わった時、すでにいつかの悪夢がよぎってきた。 やっぱりヘビィーな料理だ。塩辛いし。
しかし、この後も果敢にチャレンジし、おいしいものを探したが、なかなか容易な 事ではなかった。
サントリーニでの滞在先は、キッチン付きにしたので、少しは好きなものを食べる ことが出来たが、 どういうわけか、結局日本食はもちろん、中華さえも食べずに終わったことは特筆 すべきことかもしれない。
・・・なんて威張っているけど、実は中華料理店がみつからなかったからなのだ。
アテネ以外では、サントリーニのティラにあったが、いい場所にあるにもかかわらず、人が入っている気配がない。
カマリビーチにもチャイニーズがあったので、入るつもりであったが、行った時は 営業していなかった。 そしてクレタ島のイラクリオンでは、必死に探したのに(実は・・・)消えていたり、営業は数カ月前に辞めた風だったり。果 てはツーリストポリスにまで聞いたのに、その店も消えていた。

ギリシャほど我が道を行く国もそうざらにないと思う。 アジア諸国にもファーストフードは蔓延している。 ここは極端にフランチャイズ系の店や、海外の料理店が少ない。
アテネには数カ所あるが、それでも少ない。
唯一多かったのが、イタリアン。 多分イタリアンは世界中の人の口に合うのだろう。 イタリア人の旅行者が多いのも事実だ。 (ちなみに今回はイタリアンも一切食べなかった)
ほかにはハンバーガーくらいかな。 フライドポテトはヨーロッパじゅうの国民食であるので、ギリシャでも 郷土料理の一つになるだろう。
中華はどこに行っても必ずある・・・っていうことはない。 ここ、ギリシャでは人気がないようだ。
コーヒーも相変わらず『ネスカフェ』。
グリークコーヒーも健在だったが。
一番人気は季節柄、ネスカフェのフラッペ。ネスカフェと砂糖、生クリームがシェイクされている、濃厚なような、軽いような味の飲み物。 みんなが飲んでいるので、ついつられて数回飲んでしまったが、必ず後悔。 (アテネには数カ所スタバもあったが)
飲み物や食べ物だけじゃない。 ギリシャは我が道を行く国。 その迫力はすごい。


8月25日

アクロポリスに向かう。 パルテノン神殿は、かなり修復中で、足場が組まれている。
以前の面影がない。帰ったら写真を見比べてみよう。
一周してみる。

シフノスへの出発のため再びピレウスに行くが、またもや観光客でごった返していた。 Express ペガサスを探す。
駅前だけではなく、まだまだ先に港が続き、目指す船までは10分ほどかかった。

16時発。
船内は相当な人数の人が乗っていた。
・・・相当な人が乗れるスペースがあった。
私はけっこう船が好きだ。(揺れない限り) 自由に動き回れるので船内の探検も楽しい。
甲板に出ると、どこまでも青いエーゲ海。

船は22時少し前に着く。
当然真っ暗。 フェリーの入り口で、待つ。
この大きな扉の向こうにどんな景色があるのか? お迎え(ホテルの客引き)はあるのか? 扉は宇宙船みたいに大きく上から開き、真っ黒な空がまず見える。
それから徐々に港が目の前に現れた。

やはり時間のせいか、もしくはマイナーな島のせいか、客引きはいなかった。 ホテルがみつかるか心配だったが、港の公営と私営のインフォメーションでそれぞれ聞い てみた。
ここでは、港近辺の情報は多かったが、島全体の情報が少ない。 ちょうど島の中心アポロニアへ行くバスが出ていたので乗ることにした。

アポロニアのiは私営のようだった。 時間も時間なのでこちらの要求も控えめ。
たった一つ残っていた場所に、ノーチョイスで決める。
そこは、ビーチに近い村ということだった。 シフノスでは、海のある田舎でのんびりしたかったので、それもいいと思った。
アポロニアから7km先の場所で、タクシーで連れていってもらった。
ホテルというより、民宿のような感じ。
回りには家もない。
誰かいないか探したが、心細いことに、人の気配はなかった。
インフォメーションのお兄さんが電話してくれたはずなのに・・・。
タクシーのおじさんは協力的だったが、悪いので帰ってもらった。

しばらく待っていると、おばさんが現れた。 鍵をわたしてくれ、コーヒーを自由に作って飲める裏の部屋を案内してくれたり、 部屋の説明をしてくれた。
すごく静かな場所だ。 まわりはどうなっているのか、どんな景色なのか全く見えない。
とにかく宿が確保できてほっとした。
明日を楽しみにシャワーを浴びて、洗濯をして寝た。


7月26日
(土曜)

朝4時に目が覚める。 昨日は漆黒の中、タクシーに連れてこられ、まだここがどんな場所なのか、 どんな風景の場所なのかわからない。
明るくなるのを待って外に出てた。
見晴しの良い高台で、下方には小さな湾になった海が見えた。
昨日教えてもらったコーヒーを作る裏の小さな部屋に行く。 そこにはキャンプ用のコンロと、空き瓶に入ったコーヒー、紙コップなどがあった。
コーヒーメーカーはないし、細かい粉だったので、インスタントコーヒーかと 思って作ったらすごい味になった。
グリークコーヒーだった。 よく見たら、グリークコーヒーを作るための小さなパン(鍋?)も置いてあった。

ここは、2階に入り口があって、昨日は気が付かなかったが、一階が経営者の 住まいになっている。 2階と3階の合わせて6部屋ほどを貸している民宿のようだ。
各室にはそれぞれ独立した入り口とバルコニーが付いていて、部屋にはエアコンは なかったが、天井に大きな扇風機がついていて、一日中過ごしやすい気候の シフノスでは、心地よかった。
シンプルな作りだが、
冷蔵庫だけは大きかった。
それでも田舎のせいか、値段も安く(おばさんが管理をしているせいか、チップも 取らず) とても快適だった。

海の方におりていく。
海までは少し距離があるが、いいお散歩コースだ。
人の気配はない。
海岸に出るとお店がいくつかあり、その一つの店のおじさんが声をかけてくれたので その店に入る。(そういうのに弱い)
朝はレストランで食べる予定だったが、そのおじさんの店でトマト、梨やらチーズ、パンを買ってビーチで食べることに変更した。
ビーチはどこかおじさんに聞くと、近くに4か所あると言う。そのすべてを教えてくれた。

その一つのビーチを目指した。
すぐにビーチはわかった。
誰もいない。
木の下にござを敷いた。 そこで40分くらい泳いだ。
最初は水が冷たくて、なかなか肩までつか ることができなかったが
、エメラルドを溶かしたような水は、浸かっているだけでもとてもとても気持ちがいい。
私は海に入るのが大好き。 泳ぐのはプールで、海は浮き袋を持参して、水の上をさすらうのが好き。 (かなり臆病なのだ)
しかし、うかつにも浮き袋を持ってくるのを忘れた。 案外、外国では売っていないものである。

何かに刺された気がした。 くらげかと思ったら、体長3cmの魚がたくさん泳いでいた。 魚がつつくのだ。
女の人が一人で来て泳ぎはじめた。 エメラルドグリーン、ピーコックブルー、深い深い青だ。 夢のように気持ちがいい。

お昼頃、一度ホテルに帰り、町(アポロニア)にホテル代を支払いにいく。 昨日のインフォメーションで支払うことになっているのだ。
宿のすぐ目の前にバス停がある。(どこでも道じゅうバス停だった) 昨日通った道のはずだか、全く街灯がなかったので、初めて来たように、車窓の景色に釘付けになる。
家はほとんどなく、見晴しが良い。
丘をいくつも超えていく。

まずはインフォメーションでお金を払い、町を散策。
キクラデス諸島特有の白い町。
お店をのぞく。ジュエリーショップがたくさんあった。
ひとまわりして食事。おしゃれな盛り付けで味加減もよく、一応おいしかった。
一度家に帰りまた海に向かう。 (一日が長い。日没が遅いせいもあるが、時間がゆったりと流れている)
海の近くの、ロバがいる敷地内に入ろうとすると、ロバはすごい声をだして抵抗した。 ロバがいた農場の裏の道を歩いてみる。
海に降りて行く途中、上から見えた道を どこまでも行ってみる。道の両側は、石積みの塀に囲まれている。 行き止まりまで行ったが、ここからまっすぐ上に登ればホテルまですぐだというのに、道がなかった。(誰かの敷地を通 らなければならなかった。:後でわかったが、この道まで全部ホテルの土地だったので、入っても良かった。)


7月27日(日)

6時に目が覚め、pcをいじりながらまた寝てしまい、8:45くらいに起きる。
風の音がすごい。
のんびりし(のんびりするために来たのだ!と、自分に言い 聞かせ)11時頃下の海へ。 午前中は左の丘を超えたビーチに行くことにする。
漁船が少しあり、その近くでおばさんが、たこをコンクリートに叩き付けている。
吸盤をとっているのか。
おばさんにビーチの行き方を聞き、裏へ行ってみると、ここもきれいなビーチ。
30分くらい泳いだ。 また港に戻りおじさんの店に行くと、表にビート版みたいな物があった(昨日はなか った)ので、見ていたら、こっちを見てごらんと言うので入っていくと、なんと、そこには 私が昨日から探していた、浮き袋があった。
しかも、大きくて取っ手まで着いているではないか。気に入った。
何で私の気持ちがおじさんに通じたのか・・・・。
そして、飲み物とクロワッサン、チョコ入りクロワッサンも買っていつものビーチ (2回目でいつもの・・・になってしまう)へ行く。
そこで浮き袋を使おう。
昨日と違って少々込んでいる。時間が遅いせいか。
また海に入るが今日は風が強い。気持ち良く浮かんでいると、すぐ流される。 慌てて戻るが、これがなかなか大変。 沖から見たら、気楽そうに浮いていたと見えたと思うが、かなり必死でばた足をしてやっと戻ってきた。

今日はもうひとつ、右側から海沿いを回っていく遠いビーチに行くことにした。
20分の距離ということだった。
左手に海を見ながら
少し登って、あとはほとんど平らな道。
振り返るとさっきの(いつもの)ビーチ、そして雄大な美しい風景。
エメラルド原石そのもののような美しさ。 色に深みがある。
この輝く海は他のどの海もかなわない。 世界中の海の中でもエーゲ海は特別なのだ。 (今はそういう事にしてやって下さい)
何か所かで風景に見とれ、足留めされつつ歩く。
山の上には教会があったが、 寄り道しようとすると風に抵抗されあきらめる。

岬を曲がると、反対側にも長くせり出す岬が見えた。そこには白い教会があった。 向こうのビーチはまた美しいものだった。ビーチの真上あたりに行くと、通行止めになっていたので、海に入る用意もなかったので、戻ることにした。


7月28日

朝、すっかり自分の家のようになった宿に別れを告げる。
ここのおばさんは終始おだやかでやさしくて品のいい人だった。
この島では、ローカルな浜辺でほとんどの時を過ごし、ひたすらのんびり過ごした。

港には3日ぶりで戻ってきた。
港のそばは海辺にレストランが並び、けっこう賑やかだ。
船の出発を待つあいだ、この通りを歩いてみる。
一つの陶器を売る店が目に入った。 ここは他のお土産やとは一線を画して、同じ作り手による陶器だけが売られており、 まだ作りかけの陶器が、乾燥を待って、たな板に並べられている。
ここのおじいちゃんが作っているようだ。
この旅行中、ただ一つ気に入った陶器は、ここの店だけだった。 絵付けはシンプル。ストライプとか。 蓋付きの入れ物など欲しいものがあったが、ぐ~っとこらえて(まだ旅は始まったばかりである) 小さなボウル大・中・小(小・極小・特極小かも)を買うにとどめた。
単なるブルーのストライプの雑器だが、そんなものにも作り手のセンスが出ている。

さて、次の島はミロス島。 ここに来たかったわけは、静かな海のきれいな島で、ミロのビーナスが発見されたという島だから。
重なりあうような色の透明感のある海は、ここでしか見れないという。

ミロスに着いたのはお昼過ぎ。
港に着くと、客引きのおじさんが二人いて、強引にホテルに連れていかれる。
港から、島の中心の町に行ってから探そうと思っていたので、気が進まなかったが、 とりあえず一泊してもいいだろう。
連れていかれた場所は車で5分かかったので、不便そうでいやだなぁと思ったら、階段を使えば歩いて 5分で港まで行けた。

この日はまず次の島、サントリーニに行く船のチケットを買うことにする。
何件かの旅行社に聞いても、週に1便しかサントリー二行きはない。
土曜日までないと言うのだ。 しかも、23時発の普通便しかないという。 週末に移動すると混むので、木曜には移動したい。
最後に聞いた店で、シフノスからは毎日便が出ているので、いったんシフノスに行って、高速船で乗り換えれば、土曜に出る便より時間も短く、楽で、毎日便があるということがわかった。
出発は予定どおり木曜日にした。
これでミロスでの滞在は3日ということ決まった。

今度は島の中心地プラカに行ってみることにした。
ここに行けばホテル探しができると思ったからだ。
プラカに行くと、そう大きな町でもなく、ポリスはあれども、インフォメーションはなかった。
ポリスで、ホテルを探しているというと、港の町アマダスに行けという。
今来た場所がアマダスなのだ。
町は山の上の方にあり、小さい道が迷路のようにあり、ここも典型的なキクラデス諸島の、 真っ白い家々が並ぶ。 こじんまりして、とてもかわいらいい雰囲気が町中に溢れている。 iがないなら歩いて探すしかないが、全くホテルらしきものはない。
どうもこの島は、港の町アマダスにいた方が便利なようだ。 あちこちへ行くバスも港から直接出ている。
結局最初に泊まったところで3日間を過ごすことにした。
実際ここは便利だし、部屋もいい。ベランダでくつろぐにも最高だ。
そして一番よかったことは、レセプションの女性、Vassia(ヴァシア)との出会いだった。


7月29日

レセプションのお姉さんVassiaに、お勧めビーチはどこか聞いてみる。 いくつかの候補を教えてくれ、今日は彼女が一番好きだというビーチPaleochoriに 行くことにする。
確かにそこは、今まで見たビーチのどこよりもきれいだ。 海中を見ると、長さ20cmくらいの魚が泳いでいる。 海底は急に深くすり鉢状に深くなっている。 とても気持ちがいい! 海辺で少し休む。
港のあたりだけは車も人も多いが、みんなどこへ行ったのかと思う程、ここは人が少ない。

午後はToripitiに行く。ここは昨日来たプラカの町の近くだ。 今日の一番の目玉はミロのビーナスが発見された場所に行くことだ。 ガイドブックを三冊持っていたが、どれもビーナスが発見された場所について、具体的なことは 書いていない。
農夫が偶然見つけたということだとか、海を見下ろす丘の上だとか、ヒントはある。
山の上の教会の下だともいう。教会とはどの教会を指すのか? 教会からどのくらい下なのか・・・。
この件の詳しい聞きこみをするために、レストランに入ってみたり、道行く人を捕まえたり・・・。
しかし作業は一向に進まない。
英語はあまり通じないので、ビーナスの写真を見せてこれはどこで発見されたか聞くが、 『パリのルーブルにある』と言われたり、この辺だよ・・・って指差す範囲が半径1kmくらいだったり。 誰もその場所に行ってみたいとは思っていないらしい。
ここで有名なのは、カタコンベと、エンシャントシアターなのだ。 最初にシアターに行ってみる。 アスファルトの道からそれて、途中から田舎道になる。 海が下に見え、なだらかな丘が重なりあう。 なんて美しいところなんだろう・・・
平和で穏やかだ。
そこの道の入り口に、ビーナスが発見されたところもこのあたりにあると書いてある看板を見つけた。
誰かもシアターのそばにあると言っていたっけ。
またはカタコンベの近くにもあると言っていた。 (けっこう広範囲だ)
道なりに歩いていくと、そこに忽然と現れたのは、古代のシアターであった。
海に向かって舞台がある。
なんて素晴らしい場所にシアターがあるんだろう。
古代の人は優雅な暮らしをしていたのだろう・・・。
シアターは簡単に見つけることは出来たが、私はどうしてもビーナスが発見された場所を見たかった。
それで単身捜索にあたった。 上を見ると、山の頂上に教会がある。あそこがあやしい・・・。
木などほとんどない、見晴しの良い場所だが、足下にはドライフラワーになった、刺のある草がある。
道なき道を登っていく。
そしてもう一息で教会という場所で、柵がはりめぐらされて入ることができない。
さすがに柵を超えてまで入ることは出来ず、あきらめて戻った。
もう一度シアターに戻ると、来た道とは逆方向にも小さな道が見えた。
今度はそちらに行ってみよう。
そちらは別の道から合流していて、ちらほら観光客の姿もある。
ここは、カタコンベに通じる道だった。
入り口には小さな小屋があったので、入場切符を買うのかと思ったら、無料だということだった。
けっこう深く長い道があるのだが、入れるのは入り口の部分だけ。 棚のようにいくつも穴が掘られていて、この中に骨が安置されていたのだろう。
私はもともとこういうお墓系の場所では写真を撮らない。恐いものが写っていたらいやだからだ。
ここは写真は禁止になっているのに、カップルが入ってきて、あちこちでポーズをとり写 真を撮りまくっている。 気持ちがわからない。
入り口の小屋にいた女性に、ビーナス発見の場所を聞くと、 その人は自信ありげに教えてくれた。
シアターのそばだと言っている。 しかし英語は話さないので、私がそこからエンシャントシアターまでの地図とシアターの絵を描いたら、 しっかり場所を書き込んでくれた。
心強くなって、早速戻ってみる。
今通ってきたはずなんだけど、気がつかなかったのだろう。
教えられた 場所はシアターの少し手前の左側。
はやる気持ちを押さえてきれずにどんどん道を進んでいくが、とうとうシアターに着くまでそれらしいものはなかった。
来ては戻りをくり返したが・・・。

あきらめて、また最初入ってきた道まで戻る。
もう見つけるのは無理かな・・・と、あきらめかけた頃、最初に見つけた看板まで戻った。 『ここでミロのビーナスが発見された・・・』という場所に戻る。
そのときふっと気が着いた!!!
そうだ! 私は早合点して、こちらの方向がその場所と、取り違えていたが、その場所こそが私が 探していた現場ではないか!
看板のある場所から下の暗い茂みに目をやると、木の陰で薄暗い目立たない場所に 大理石のプレートが・・・!
あった!!!
すぐに降りていって、日の当たらない地味な場所に立ち、しみじみ感じ入る。
彼女はここに長いあいだ眠っていたのか・・・。 これはとても感動的な出来事だった。 (パリに行って本物のビーナスに会いたくなった。)

この後、またレストランのある場所まで戻り、クリマという村に行ってみることにした。 かなり歩いてみたが、行けども行けども目的地に着きそうもなく、もし陽が暮れたら灯りが ないので帰れない。30分程歩いて、あきらめ元にもどる。
戻った先には夕陽を見るための公園(見晴らし台)があった。 そこには二人のおじいちゃんがいて、
「その小さな公園の隣にある民家の中に入るともっと 夕陽がよく見えるよ」 と教えてくれた。
真っ赤な夕陽が沈む直前で、山の中に沈むまで目を離すことができなかった。


7月30日


Vassiaは10月に小豆島にホームステイに来るという。 (ミロス島と小豆島は姉妹都市なのだ) それをすごく楽しみにしている。
とてもチャーミングな女性だ。
今日もVassiaからいろいろな情報を聞き出す。
この港にあるこの島唯一のiのお兄さんは不親切で、ものを尋ねる気にはなれない。 Vassiaがいなかったら、少ない情報のなか、この島が退屈になっていたかもしれない。
また、彼女と仲良しの、掃除係のかわいい女性アナスタシアも感じが良かった。
部屋からインターネットを繋ぐのに、一番近いプロバイダーの場所をリストを見せて聞くが この島はそのリストになく、3つ位の候補の場所を教えてくれた。
それは、ここからどのくらい遠いの?と聞くと、8時間(船でかかる時間だろう)とか すごい事を言うので、お互いの距離感覚の違いに驚いた。
どうしても繋がらないので、インターネットカフェはないか聞くと、近くにあるという。 それだ!と思って場所を教えてもらう。 彼女はこの道を行って右に回り、左に行くと、左側にあると言う。もし本当にそこにネットカフェが あれば、Vassiaはギリシャに来て、初めて正しい道順を教えて記念すべき人になる。
そしてそこにはちゃ~んと探していたネットができる店があった。
さすがVassia! (その後もこんなふうに正確に道を教えてくれた人はとうとういなかった)

しかし、考えは甘かった。 yahoo japanをクリックしても出てこない。自分に来たメールはyahooに入るように 設定してある。 あきらめて帰ろうとすると、お店の人がもう一度やってみてくれたが結果 は同じだった。 自分のpcを持ち込んでいいか?と聞くと、いいと言う。夜にもう一度戻ってこようと思った。

今日はプラカ(またはミロの町)の近くの考古学博物館に行く。 中は狭かったが、楽しい陶器がいくつかあった。ビーナスのレプリカもあった。

そして、今日はまた別のビーチに行ってみる。 Phylakopiという場所で、そこは不思議なビーチであった。 岩に亀裂が細長く入ったような形で、その奥に小さなビーチがあった。 まるでプライベートビーチのように狭い。 おもしろい景観だが、そこで泳ぐ気にはなれなかった。 (すでにグループが占領していたし)
その近くに遺跡があるというので行ってみた。 『遺跡』と入り口に書いていなければわからないような、石を積み上げたあとが少し残っているような ところだったが、初期キクラデス、中期キクラデス、さらにミケーネ人の影響と思われる3つの異なる 遺跡群だということだったが、とても判別がつかなかった。
ここは海のすぐそば。 こんなところに家を建てる気持ちはよくわかる。

今日の夕食はおいしかった。 ビーツのサラダもきゅうりのヨーグルトサラダ(サジキ)もさわやか! たこのグリルも海老のトマトソース煮も満足。ビールもおいしい。
久しぶりに完食。
港に沿ったビーチ沿いの店だ。

ふたたびpc持参で接続を試みる。 昼間の男の人はいなくて、お店契約しているプロバイダーに繋いでくれるようだった。
誰かに電話をかけて聞きながら作業してくれる。
しかし、彼女では問題は解決しなかった。 翌日、pcに詳しい人が来るので、再度チャレンジするということで、諦めて帰った。

7月31日

今日は移動日。
午前中まで部屋でのんびりし、12時少し前にチェックアウト。
レセプションに行くとVassiaはちょうど帰るところで、すんでのところで さよならを言いそびれるとこだった。
彼女にはちょうど家族が車で迎えにきていた。
2週間前にバイクの事故で18針 も縫ったそうで、一人では帰れないということを知った。 彼女のメールアドレスをもらい、お別れをした。

出発までの2時間ほど、荷物を預かってもらうことにした。 インターネットに行くと、pcに詳しい経営者がいて、頑張っていろいろ試したがで きず、 そばにいたフランス人のおじさんが手伝ってくれ、30分くらいかかってやっと出来た!
みんなでブラボー!
自分のpcを使えるのは、本当に助かる。 何でも早いし、日記もメールで家族に送った。
写真も一枚入れた。
小さな島に、多分一件しかないこの店は、融通が利いて、持ち込みのpcに店が契約している プロバイダーとダイヤルアップでつないでくれた。
そんなことをして、食事を済ますと、もう荷物を取りに行く時間になっていた。

このホテルに連れてきた、あの調子のいいおじさん(ホテルのオーナー)に、 港まで送ってもらうことになっていた。
船の時間は3時だった。あのおじさん、調子はいいけど、ギリシャ人だし(ごめ ん!) 時間通りには来てくれないだろうと思い、早めに、二時に約束をしておいた。
港までは、歩いても5分なのだが、階段が多く、とても荷物を持っていけない。
二時少し前にホテルに帰ってきた私たちは、荷物を探したが、元に置いた場所 にはなかった。
とりあえず、おじさんが来るのを待っていた。 いや、待とうという心づもりをしていた。 ・・・・、おじさんは、期待を破り、二時きっかりにホテルに戻ってきた。 あっ、これじゃあ早すぎる! いや、疑ってゴメン!
荷物はすでにミニバスに積んであった。 なんて几帳面で約束を守る男なんだ!
おじさんは運転しながら、自分は元船員で、日本にも来たことがあると言う。 30年前の話だそうだが。
なぜか最後に、 『ありがとう、マスター』 と、言っていた。ありがとうございましたのつもりなのか、マスターの いる店で覚えた日本語なのか・・・。

港で船を待つ。

15:00ミロス発 16:50シフノス着
18:00シフノス発 19:30サントリーニ着

ただし、それぞれ30分づつ遅れた。 サントリーニへの期待度は高い。
長い間行ってみたかった場所だ。

港は切り立った岩の下にあった。
他の島と違い、港の周辺は意外にも素朴だった。
宿探しは心配していたが、 客引きが多く、一斉にホテルの案内を掲げている。
最初はもしかして誰かのお迎えなのかもしれないと思った。 なぜならば、かつてミコノスに行った時、群がってきた客引きとは違い、 一列にきちんと並んでいて、枠の手前には出てこないからだ。

中でも正直そうな地味なおじさんを 選んで声をかけてみたら、果たして客引きであった。 おじさんは海辺と町にそれぞれ計3件の宿を持っていた。 どちらを選んでもいいと言う。 おばさんも来ていて、車でホテルまで連れていかれる。

道は港の上をぐるぐるイロハ坂のように登っていく。
かなり高さがある。
私は景色に感動して、その角を曲がる度に声を出していたので、おばさんが島の 簡単な案内を始めた。
あそこに見えるのが火山で、ツアーがあるよ・・・とか、どこのビーチが良いとか。

部屋に冷蔵庫はあるか聞くと、ないという。 もし冷蔵庫付きがいいなら、今日は空いていないが、明日なら部屋があるので 替えてくれると言う。また別の場所らしかったが・・。

着いたのは、島の中心、ティラの町から800m手前の何でもそろっている、 こじんまりした古い町カテラードスだった。 ここはまるでアラブのよう、カサブランカみたいな雰囲気さえする。 レストランもたくさんある。

港に着いて いきなりのあの景色、すごい迫力!この雰囲気のいい古い町。
この島がとても気に入った。
荷物を置いて外に出た時には、陽もすっかり沈んでいた。 ホテルのそばのレストランに入った。 ごく普通の昔気質のギリシャ料理だった。


8月1日

9時に出てフィラ(サントリーニ島の中心の町)に向かう。 10分で歩いて行けるということなので一本道を進んでみる。 結局25分くらいで着いた。(たいてい言われた時間の2倍~3倍とみればよい)
道もよく整っている。 さすがにシフノスやミロスよりフィラの町は大きそう。 観光客の数も桁が違う。 車が走る通りを、山側に行くと小径があり、ここからはロバと人間以外は入れない。
小径は従横にはりめぐされていて、この中に観光で必要なものは全てある。
縦(山の方)に進んでいくと、ほどなく頂上であり、かつ行き止まり地点にたどり着く。 そこから下は、断崖絶壁、下は海であった。
断崖の下は、オールドポートがあり、火山の島が見える。
その回りのやや、なだらかな斜面に白い家(レストラン、ホテル、教会など)が 建っている。
道から下を望む。
こんな景色、見た事ない。
サントリーニは海底から盛り上がってきた火山によって形成された島だ。 その時、近くにあった小さな島はこの火山島に組み込まれ、一方、陥没によって 中央部に巨大なカルデラが生じ、そこに海水が侵入して紺碧の海原と化し、 二重構造の島ができたのだ。 外輪山の内側は、高さ300メート前後の断崖絶壁をなし、海からそそり立つ。 島の形は、三日月型をしている。その真ん中に火山のある島がある。 そこが内輪山で、ネア・カメニ島といい、オールドポートから島のへ渡る船が出ている。

途中で、amexの看板を見つけた。 もしかして、ここが、この島で唯一つのamexの出店ではないだろうか。 リストの住所には15steps old portと書かれていて、見つかるか心配だったが、 まさにそれが、ここなのだ。(ある意味分かりやすかった)
amexのそばのカフェに入る。
ここは最高に眺めがすばらしいところ。
右を見ても、下を見ても、左を見ても。(下は海とネア・カメニ島、右や左には真っ白な家々が島の傾斜面 に張り付いている)
グリークコーヒーとアップルパイを食べる。おいしい!
あちこちの店をのぞいているうち、考古学博物館も閉まってしまったので、 今日はオールドポートにおりてみることにした。

ゴンドラリフトで一気に下る。
私は高所恐怖症で、その上ゴンドラはガタガタ揺れ て、けっこう恐い。
下から崖を見上げると、さらに迫力のある景観に圧倒される。
ここには大型船(クルーズ船)が、港のそばに停泊し、そこからテンダーボートに 乗り換えて、この観光客がオールドポートに入ってくる。 ちなみに、このオールドポートと言うのはが、正式にはスカラ・フィラと言い、 私がミロス島から入ってきたニューポートは、正式にはアティニオスと言う。
再び崖の上に戻るには、ゴンドラリフトに乗るか、580段と言われる階段を登ることになる。
そして、そこにはもう一つの交通手段である、ロバが待機している。
私はロバに乗りたい。
でも、かなりの高所恐怖症(ロバの背中の高さでさえ怖い)なのだ。
心は港に降りて来る前から決まっていた。
絶対ロバに乗りたい!

イギリス人のおじさんが話しかけてきた。 ロバのことを聞いてみたら、去年乗ったけど、みんな足首をツイストしたり、大変な騒ぎだったよと言う。
ロバの乗り場に行くと、5分間待つように言われた。 何のことかと思ったら、人数を集めているのだった。 ところが誰も乗らない。
おじさんは、道行く観光客に声をかけまくっているのだが・・・ 。
上からロバで降りてきた人はけっこういる。 みんな疲れきった表情だった。
やっと日本人ファミリーが来て出発が決まった。そこへもう一組日本人カップルも参加。めったにいない日本人がなぜかここに集合した。 (シフノス、ミロスでは日本人は皆無。たぶんアジア系もいなかった。 ここ、サントリーニでは、7泊の滞在中、15人程度は日本人観光客を見かけたが、 それでもかなり少ない。むしろ、香港、韓国の観光客の方が、やや多かった)

ロバは大人しい。
まず私が最初に乗った。
よろしくお願いしますよ!・・・と、ロバの首を触ってみた。
薄茶色のかわいいロバだ。
最初はなかなか進んでくれない。少し進むと他のロバに阻まれて止まってしまう。
やっと後ろの人たちもそろった。
出発だ。
ロバ使いのおじさんは叫び続けながら、ロバを追い立てた。
となりのロバに幅寄せしたり、突進したりしているが、恐くはない。 むしろおもしろい。 階段の曲がり箇所にくると、ロバは壁の方向、すなわち崖のふちに幅寄せ。私のロバは海側すれすれを歩く。
なぜかファミリーの奥さんのロバと仲良しのようで、よく隣同士並んだので、 話をする。火山の島に行ってきたそうだが、小さい子供連れなので、山にも登らず 帰ってきたということだった。
高所恐怖症の私でも、どんどん登って高い位置にきても恐くはなく、むしろ気持ち がよかった。
とうとう終点に着いた。
ここまで一緒に来ると、ロバへの愛着が芽生える。
私のロバ。
写真を撮って、ロバに感謝を込めてお別れをした。

夕方は夕陽の町、イアに行くことにした。 夕陽を見るならここなのだ。
ここからだと、まっすぐ海に沈む夕陽を見る事ができる。
イアの町はオシャレな感じ。 小径を、お店をのぞきながら行くと、夕陽の名所にきた。
しかしまだ日は高い。 日没まで二時間もある。
町をぶらぶらしていると、どんどんこの町に人が到着して、同じ方向に歩いていく。
みんなの目的は一つらしい。
なんだか私も心配になってきた。 あの丘が人で埋め尽くされ、夕陽を見る場所がなくなってしまう。 日没まで1時間前という頃に、もう一度その丘に戻る。
かろうじて、石垣のふちに腰を掛けることができた。
太陽は少し傾いて、海の上をこちらに向かって陽が、長い光の道のようにこちらに 向かってまっすぐに伸びていた。
ちょっと宗教的だ。
日記を書きながら日没を待つ。
人がどんどんこの狭いスペースに入ってくる。
テレビカメラやマイクも来ている。
陽はいよいよ傾き、赤みを帯びてくる。
シャッターを押す音が盛んに聞こえる。 まるで人気アイドルの記者会見のよう。
この丘にはもうスペースがない程の人が溢れ、丘以外の、海に面した斜面にも たくさんの人が一つの方向を見ている。
これが自然の大イベントなのだ。
クライマックスが近付くと、シャッターの音が絶え間ない。
海の上には雲なのか、霧なのか、層があって、残念ながら海に沈むところは見えな かったが、いよいよ陽が沈む瞬間、かすかなため息の後に一斉に拍手と口笛。
雲に溶けていった赤い太陽に向かってのお礼であり、すばらしい一日の締めくくり の感謝の表現でもあるのだろう。
こんな風に毎日ここでは、こんなドラマチックなイベントが繰り返されている。


8月2日


ホテルだが、値段が安いのは良かったが、窓が小さく(これは日ざしを避けるためだと思う) 部屋は広すぎるせいか、ちょっぴり古いせいか、殺風景で居心地が悪い。
本格的な自炊をするつもりはないが、たまには白いごはんとか、梅干しも食べたいので、 キッチン付きの別の場所にあるホテルに移ることにした。
このホテルのおじさんが持っている物件だ。 (他を探しても良かったが、私はこういう時妙に義理堅い)
カウチもある広々した部屋に大きなバルコニーが付いた、感じの良いホテルだった。
昨日泊まった小さな町からさらに歩いて10分くらいの場所で、近くには一件し か店はないが、回りには家もなく、草原の中にあり海も遠くに見える。
どこへ行くにも便利なバスが頻繁に走る道もすぐそば。
プールもある。(とうとうそこでは泳がなかったが)

すぐに、カマリビーチに向かう。
黒砂のビーチということだったが、日本のビーチのような色だった。
水の中には大きな ぬるぬるした石がゴロゴロとあった。
細長いビーチ沿いにお店がずらりとある。かなりファッショナブル。 ほとんどがレストランか、Bar。
ここに来たほんとうの目的はエンシャント・テラという遺跡だった。 そのツアーをあつかっているエージェントを探したが見つからず、やっと目星が ついたところで、おなかがすいたので、先にお昼にすることにした。
先に目を付けていた、チャイニーズレストランへの夢が広がる。 戻るにはかなり距離があったが、久々のアジア食のためにがんばった。 しかし、行ってみると、そこは夕方からしか、開店していない。
かなりがっかりして、となりのレストランのメニューを見ていると、ウエイターの お兄さんがメニューを紹介してくれた。
とにかくおなかがすいていたので入る。
today's スペシャルというのにする。 マトンにポテトが付いたもの。私はビーフとライス。 つきだしの三種類のディップがとてもおいしい。グリーンサラダも頼むと、 ぶどうの葉包みも入っていておいしい! 前菜でかなりお腹いっぱいになった。
おにいさんは、ミネラルウォーターをワインクーラーに入れたり、ものすごく サービスがいい。 感じもいいし、おいしい。 ただし、メインはやはりきつかった。 最後にはケーキの上にアイスクリームが乗ったものがサービスとして出された。

もう一度エンシャントテラのツアーを探しにいったが、すでにツアーバスの最終(13時)には間に合わないことがわかった。(後で見たら、ちゃんと地球の歩き方に載っていた) 帰りにスーパーで買い出しをして、ホテルで久しぶりにほっとする食事をした。


8月3日


今日はまずフィラ行きのバスに乗り、考古学博物館へ。
サントリーニは、前3000年からミノア文明に似た華やかな文化が栄えたが、 前1500年頃の大噴火で一挙に滅びた。 そのありさまは、後で行くアクロティリで見ることが出来る。 この博物館には、アクロティリで発見されたものも一部あるが、後述する、 エンシャント・テラで発掘されたものが展示されている。
広くはないが、原始的な図柄から、細密なものまで、多くは陶器が展示されている。
かわいいものもたくさんあり、古代の人間のユーモアと生活の余裕を感じ取 ることができる。

バスで今度はアクロティリに向かう。
テントで覆われた遺跡。
エーゲ海青銅器文化の都市遺跡で、大噴火の時の軽 石と火山灰の厚い層ですっぽりと覆われていたため、保存状態が良いという ことだ。
ここで見つかった壁画はアテネの考古学博物館にあるそうだ。 こうなると、よけいにアテネの考古学博物館の一時閉館がうらめしい。
ここではただ、テントの屋根で覆われた、乾いた土のモニュメントしか見る ことができない。

アクロティリのすぐ近くにある、レッドビーチに向かう。
大きな石ころがごろごろしている道を進んでいくと、いきなり真っ赤な岩と 赤い砂のビーチが眼下に飛び込んできた。 すごい景観だ。 パラソルとベッドを借りてのんびりする。
水もきれいだが、ここほどギリシャに来て、人口密度が高いビーチもない。
海に入る人はそう多くはないから、イモ荒い状態にはならないけれど、 ビーチは一杯の人だ。
今日のパラソル屋さんの収入を計算したり、今泊まっているホテルの年収を 計算してみたり、ビーチで寝転びながら、どうでもよいことに頭を使った。

ホテルに一度戻り、夕方、昨日までいた町までぶらぶら歩いて行く。
前のホテルの近くにあった、古い家々の写真を撮る。洞窟を利用して、そのまま 入り口にドアを付けた家もある。
ここも、細い白く塗られた迷路が張り巡らされ、道を進んで奥の方に入って いくと、おばあさんが座っていた。 いつもこの時間になると、ここに座ってるのだろう。
そして、その近くに、白い道の上に青いペンキで絵が描かれた小径を発見し た。 この道をどんどんたどって行くと,その絵を描いた住人の家に行きつくことができる。

そのうち、今度は鋪装もしていない田舎道を見つけ、そこからわがホテルま で、バス通 りを通らずに、草原の中を抜けて行けることがわかる。


8月4日

朝から雑用を済ませにフィラに行く。
インターネットカフェに行くが、メールは文字化けして読めず、 日本語をダウンロードしようと待ったが、らちがあかなかった。
メールはローマ字で書いてもらうように何人かに書いて送った。
両替えなど事務的なことを済ませ、今日はこれからペリッサビーチに行く ことにした。
ここのビーチもカマリと同じく、海底に大きな石がごろごろしていた。
位置的にもすぐ近くだが、二つのビーチのあいだには、エンシャント・ テラがある山が隔てているのだ。
気持ち良くビーチで寝る。
カマリより田舎っぽくていい。
ここで早めの夕食をすることにする。 カラマリのフライと茄子のサラダ。マッシュルームスープ。 スープ以外はなかなか美味しかった。
海辺で農家のおじさんがワインを売っていた。その片隅にみつけた無花果と葡萄を喜んで買う。ワインは前日一本買ってしまっていたので 今日はあきらめる。

断崖絶壁とは逆の、外輪山の外側は、海に向かって穏やかな斜面になって いて、葡萄畑が広がっている。 ワインは昔(ギリシャの昔って、太古の昔・・・)から有名で、火山ワイン なんて銘柄もある。 田舎っぽいしっかりとした味でおいしい。
そして無花果。
かつてのスペイン、ポルトガルの旅で、いちじく食べ放題の旅をして、大の無花果 ファンになった私は、ギリシャに着いてから気になっていたのが、 無花果の生育状態だった。
ここギリシャの島には、他ではなかなか見られないほどの無花果の大木がある。
最初にシフノス島で発見した。(ビーチへ降りていく道にあった。)
近くに行くと、匂うのだがまだ実は固く小さかった。
それでも滞在中にだんだん実が大きくなって、いくつか食べたものだ。
サントリーニでも、ホテルの敷地内に無花果の木が二本あり、田舎道にも何本かある。
まだ少し早いが、いくつかは実をつけていて頂戴した。
クレタはクノッソスに大木があったが、まだ実は固かった。
新鮮ないちじくは最高のごちそうだ。

ビーチからの帰り、ホテルのあるバス停を通り過ぎて、一つ先の初日に宿泊したカテラードスの町まで行って しまったので、田舎道から歩いて戻ることにする。
ここは広々した見渡しのよい道で、馬がいたり、遠くには海が見えたり、 心が安らぐ道である。
昨日会った、絵になるおばあちゃんが、また同じ場所にいた。


8月5日


今日はまずカマリビーチに行く。
エンシャント・テラ(遺跡)に行くためだ。 先日下調べしておいたミニバスツアーを申し込む。 10:00の出発までに時間があったので、ぶらぶらお店を見てあるく。

時間通りにミニバスは満員で出発。(小さいバスなので、全員で10名ほど) バスは遺跡の少し手前でおろされる。 いきなりすごい風!立っていられないほど。
そこからゆっくり15分程で頂上に着く。途中に教会もあった。 さらに奥に進んでいくと海抜338メートルの岩山メサ・ヴィノの頂上。
奥行き800メートル、幅150メートルほどの細長い高台の上に、エンシャント・テラがある。
アルカイック時代からビザンチン時代まで、約2000年のあいだに造られた 建造物の遺構が混在している。
発掘作業をしている人を近くで見ることもできる。
海の眺めが素晴らしい野外劇場もある。
どこを歩いても見晴しがよく、強風は止み、心地良い風が吹いていた。
よく見ると、石に魚の絵や、ライオンの絵が刻まれている。
下を見れば、カマリビーチもペリッサビーチも見渡せる。
歩いてここまで下から登って来た強者も多かった。
バスが迎えにくる地点には、お店が一軒ある。と言っても、車の中がお店 になっていて、カットされたスイカが売られていたので、バスが来るまでそ れを食べて待つ。

今日はビーチには行かずにホテルに戻ることにする。
カマリビーチからの バスを待つあいだに、ギロを買う。ピタパンにポークや野菜、ポテトフライ がはさんであった。 これは安くておいしい。(でも、毎日は食べられない)

ホテルでお昼を食べて今度はホテルから見える海に向かう。 草原の向こうに見える海だ。 途中はぶどう畑が広がり、とても広々して気持ちがいい。 海はすぐそこに見えるのに、いつまで行っても近付かない。
途中道が別れるのだが、何の標識もないので、勘で進む。

かなり歩いてやっと海に行くが、今日は波がある。 そして土が溶け出しているのか、ビーチのそばの水は薄茶色い。 海岸ぞいの道をひたすら歩く。 波の音が大きいから、後ろから車が来ても波の音でかき消されてしまう。
海と反対側は、砂で造られたような奇岩があり、そこにも穴が掘られていて (または自然のものなのか)その穴の入り口にドアを付けて、人が住んでいた ような跡がある。
かなり長く、そんな風景の中を歩くと、やっと人家が見えてきた。
プールサイドのbarでアイスティーを飲み、バスで戻ることにする。

そしてまたフィラの町へ。(陽が長いので一日で三回出かけることができる)
今日もものすごい人出。夕方になるとさらに人は増える。クルーズ船のお客 さんがいるからなのか・・・、みんながビーチから帰ってくる頃なのか・・・。

とにかく向こう側(内輪山側)の海の見える場所まで行く。
夕焼けがきれいだった。


8月6日

ぺリッサビーチに行く。 今日は波が荒い。 すぐに流されてしまう。
陸に上がるにも、波があって容易ではない。
パラソルの下でのんびりと過ごし、午後からはフィラに行く。
ゴンドラリフトでオールドポートまで下る。(歩いて降りても良いのだが、 ロバの糞が臭い!)
下に降りると火山島(ネオ・カメニ)ツアーの船が出ていたので、『渡りに船』 ということで迷わず乗る。
徐々に島から離れていく。
この景色を海から見るのもいいものだ。 形容されるように、紫褐色の断崖絶壁の上に、真っ白い雪が積もったように 見える白い町。それがフィラだ。
20分ほどでネオ・カメニに着く。 ツアーと言っても、島で勝手に一時間ほどハイキングして、また港まで 船で連れていってくれるだけなのだ。

火山の島ネオ・カメニは富士山の鬼押出しのようなところ。子供の頃、よく連れて行か れたたせいか、我々日本人にとって、この風景は馴染みがある。
山を登っていくと火口があった。みんなはそこで満足して船に戻ったが、私は もっと上まで行ってみたかった。
誰もいないきれいな道を登ってみる。まるで風が造った砂丘に出来た道の ように、なだらかできれいな造形の道。(実際は、ハイキング客のために 人が作った道らしい)
できれば、山の一番高いところまで行って、向こう側の景色を見たいのだが、 視界の範囲では、誰もいない。せっかくここまで来たのに、残念だったが 船に戻る決心をした。
クルーズ船でサントリーニに立ち寄った人もいて、その人たちは、時間がない のか満足してしまったのか30分ほどで引き返し、船で私を待っていた。

今度はロバだ。 もう一度乗りたかったのだ!!!
今日のロバは、やや茶色のかわいいやつ。
最初はゆっくりで、なかなか進まなかった。 ロバのおじさんが追い立てに来ないからだ。 ロバは気ままに草を食べたりしている。
歩いて降りてきた観光客とすれ違う。その人達が動かないロバを走らせようと ロバに向かってけしかけたり、走らせるこつを教えてくれる。
そんなのんびりした時間のあと、後ろからやってきたのはロバ使いのおじさん。
勢いよく追い立てられて、急に競馬馬のようになってしまって、猛スピード で走り出す。必死でロバを信じて背中にしがみつく。
みんなキャーキャー大騒ぎしている。
前回とは全く感じが違う。 さすがに振り落とされそうで恐かった。
猛スピードで階段を駆け上がり、電信柱のスレスレのとこを通り抜けるもの だから、私の足は木の柱にこすりつけられかすり傷を負う。
最後はあっという間に上に着いてしまった。
今回は、波乱含みの展開であったが、さらにロバへの思いは募り、おみやげに 小さいロバの置物を買った。(それは今、テレビの上に置いてある)
もうひとつ、ロバのペンダントトップも買った。

初めてフィラの街に来た時に入った、同じカフェでぺリエを飲み、沈む夕日を眺 める。
最後のサントリーニの夕陽だ。 明日はクレタに旅発つ。


8月7日

今日はゆっくり起きて支度してチェックアウト。
夕方の船でクレタに向かう日だ。
最後に再びフィラに行く。
まず、メガロン・ギジミュージアムに。
静かでのんびりできる場所だ。
サントリーニの古い文章や絵、写真などがある。1573年から新たに火山活動が始まり、地図を見て、この島の形の移り変わ りがわかり、噴火の様子を描いている絵の中には、写真のない頃の新聞の報道写真と思われるものもある。
また、昔の人が作ったサントリーニの家々の模型が素朴でいて、なかなか工夫 もあり、魅力的に感じた。

何度も通ったジュエリーショップのおじさんの店で最後の買い物をする。
シルバーのかわいいペンダントトップは、軽量でおみやげにいいし、 自分でも集めているので、フィラに来るたびにここに来た。
買い物をしない日は、店の前を通りがかり、接客で忙しいおじさんに手 を振ると、うれしそうにあちらからも手を振ってくれた。
おじさんともすっかりおなじみになった頃、話を聞いた。 おじさんは、冬の間に制作しているとのことだった。 そんな生活もちょっとうらやましい。
おじさんの作ったものと、仕入れたものを売っているが、おじさんの 仕事は丁寧で、店のセレクションもオーソドックスながら、センスが良い。
この日訪ねた時、おじさんは、私たちの出発が今日だと覚えていたので、 もう行ってしまったかと思ったと言ってくれた。
でも、今度こそ、see you !

その後、教会裏のショップをゆっくりまわり、となり町カテラードスまで歩く。
ここから歩くのは、初めてフィラに行った時以来だ。最もその時は、カテ ラードスから歩いたのだったが。
カテラードスの町でパンを買って、いつもの田舎道を行く。
海を見ながら歩くこの道がとても好きだ。
道にまではみ出した葡萄。まだ熟れてはいないけど、たまにおいしいのもある。 無花果 の木もいくつかあるが、それはおいしいのはない。
まるでここに育った子のように歩く。

ホテルは家族経営で、かわいい姉妹がレセプションにいる。
姉のマリアは新しいコンピューターが欲しいらしく、いろいろ質問された。
部屋を移る時や、今日も荷物とは別にpcを貴重品の場所に預けたので、 私がPCを持っていることを知っていた。
ここでは値段が高いらしい。カタログを見せてくれて、日本では幾らくらい で買えるか、聞かれたりした。
妹のエレフテリアスとは、毎日何度も顔を合わせていたが、マリアは、 外回りが多いらしく(運転ができるからか)話をする機会がほとんどなかった のだが、メールを書いてくれるか聞かれ、もちろん!と答えた。

港で船を待っていたら、一時間半遅れるという。
この高速船には甲板がなく、決められた席に座っているしかなかった。

クレタのイラクリオンに着いたのは21時で、もうすでに真っ暗だった。
ここではお迎えのホテルもなく、心細く歩き出した。
とりあえず、25オウグストス通りにたどり着き、坂をどんどんのぼるが、 ホテルらしきものはない。
やっとみつけたホテルに飛び込み部屋を見せてもらう。 今日は移動で疲れたので、とりあえずここに荷物を下ろすことにした。

それでも、にぎやかな街に出た。 イラクリオンはクレタで一番大きな街である。街は活気があり、店もたくさ んある。 もうここには白く塗られた家や小径はなく、建物も普通のビルばかりだ。
オウグストス通りの港の近くにある、庶民的な地元の人々で賑わっている レストランに入る。特においしくはない。 出入りする客を見ていたら、地元の人々ではなく、観光客の入るレストランだった。


8月8日

昨日泊まったホテルは使い勝手が悪かったので、ホテルを新たに探すこと にする。
クレタにも観光客が多いけれど、その割にはホテルは少ない気がする。
午前中だというのに、すでに満室だったり、部屋はあるけど気に入らな かったり。(清潔感がなかったり)
部屋探しに時間をかけるのは避けたいが、これから数日宿泊するのだか ら、気に入ったところを探したい。
最終的にたどりついたのは、街の真ん中にあるホテルで、改装したば かりのこぎれいなホテルだった。 後で気付いたのだが、このホテルは私たちが宿泊している5階だけが 改装済みで、あとはまだそのまま使われていた。冷蔵庫付きを望んだ のできれいな部屋に入れたらしい。
今まで素朴な島から来たので、いきなりにぎやかな都会に戸惑いもあ ったが、何でも手にはいる便利な環境で、ちょっと疲れたらホテルで ひと休みも出来てよかった。

さて、ここイラクリオンはギリシャで一番裕福な街であるという。
活気のある小売店がどこまでも続き、人も車も多い。
クレタ島はエーゲ海の島々の中では例外的に大きく、面積は四国 の半分くらいだそうだ。 石器時代が長く続いたあと、前3000年頃から小アジア やシリア方面から何回にもわたって人々が渡来。 その時その時の遺跡や建築物が残る。
ミノア時代からぶどうやオリーブの栽培に努めてきた。 ミノア王国の全盛時代は前2000年頃から前1450年ころまで。 前1700年頃に大地震があって、すべての宮殿が崩壊し復興後た だちに再建された。(もとの宮殿の場所に)さらに規模が大きく華 麗な宮殿がたてられ、その大地震後を新宮殿時代のものといい、今、 私たちが見られるミノア時代の遺跡や考古学博物館にある出土品の 多くはこの新宮殿時代のものだという。
クレタでは4つの大きな宮殿が発見されており、なかでもクノッソ スが主導権を握っていたらしい。
新宮殿時代の末期前1500年頃にサントリーニ島で大噴火があり、 ミノア王国の力が衰えたのに乗じミケーネ人が進出。その時代も含 めて前1200年までをミノア時代と言う。 クノッソス遺跡を発掘したエヴァンスが神話伝説に出てくるミノス 王の名を取ってミノア文明と名付けたそうだ。
その後も他国の支配が入れ替わり続く。前1100年頃ドーリス人 が侵入。前69年にクレタはローマに征服され、ビザンチン帝国に 受け継がれ、アラブ人が占領した時期もあった。 1204年にはベネチア領になり、クレタ各地に残す教会などの建 築物、イラクリオンに今も残る城塞を残した。 1669年にはオスマン・トルコ軍による猛攻撃、そして支配。 トルコの支配は230年間続いたが、クレタの住民の粘り強い独立 闘争から独立し、1913年にギリシャ王国との合体に至った。
はぁ~っ、我が日本とはだいぶ違う歴史を持っているのだなぁ。

オリンピックエアーのオフィスへ行く。
アテネは暑いだろうし考古学博物館は閉まっている。 2日滞在する予定だったが、そちらを減らしてクレタの滞在を1日 延ばすほうがいいようだ。
チケットは一番最初にアテネに着いた時にエアポートで買ってしま ったので、変更してもらうわけだが、希望日に席が空いているかが 問題だったが、意外にも、スムーズに希望通りにチケットが取れる。
この季節は混み合うので、早めに買っておいたのに・・・。 でも良かった!
これでさらにあと5日クレタに泊まることになる。

すぐにホテルを出て軽く食事。挽きたての豆を使ったグリークコー ヒーがおいしかった。 そして考古学博物館へ。 ここにはクノッソスで出土した、アテネの考古学博物館では見る ことのできない逸品がたくさんある。 ガラスの棚の中にところ狭しと並べられた、ものすごい量 の展示物。 (人の数もすごい!)
陶器の形はユニークで、そこに描かれた絵は、自由な曲線と勢いで 活き活きとしている。
とぼけた顔をした人形。
今もこんな顔した人がいると思うと、親しみ が湧いてくる。 たこを描いた壷も楽しい。 海を愛し、自然を愛し、
躍動する姿を愛したミノア人にとって、たこ は絶好のモチーフだったよう。
中でも興味深かったのは、フェイストスの円盤。 私は10年以上も前にその存在を知っていた。 出会いは、ミコノス島。島の土産売り店で、この円盤を模倣した 小さなペンダントヘッドを買い求めていたのだ。 その頃はそこに古代の文字が書いてあるということしか知らなか ったが、その大元は、このフェイストスで発見されたのだった。
この円盤は、円形の粘土版で、ヒッタイトの象形文字に似たミノ アの象形文字が45個刻み付けられている。未解読であるという ことだが、祈りの言葉が書かれていたのではないかという推測が ある。
クノッソスの宮殿の壁画、通称パリの女は、火災にあっておらず、色 がそのまま残っている。目鼻立ちのしっかりした、口紅もさし、髪型も おしゃれな女性は、巫女であったそうだが、これが発見された時、見 学者の一人がパリジェンヌだ!と言ったことからこう呼ばれるように なった。現代人となんら変わりないこの女性を見ていると、ミノア文 明をさらに身近かに感じる。
牛刀のリュトンは高さ20cmの黒い凍石でできていて、迫真の出来栄 えである。これは酒器で、小さな穴から酒を入れ、牛の口から出るよ うになっている。
また、彫石(小さな石に動植物などをモチーフにしたものが彫られて いる)の数も相当なもので、繊細で細かい作業には感嘆させられる。
写真はフラッシュをつけなければ、一部の展示(そこに記されている) を除いて写 してもよいことになっている。
私がここで押したシャッターの数は数百回。(デジカメなので出来る わけだが)
ひと回りする頃には頭も体もへとへとになってしまった。
でも、心には何かときめきが残った。

イタリアンのファーストフード店で、カプチーノのアイススムージー を飲む。コーヒー豆も入った冷たくておいしい飲み物だった。
歩いた先には例のプチ・トラン(ここでは何と言うのやら)乗る。
旧市街から新市街も回る。
旧市街はベネチアが築いた城塞の中にある。 城塞は典型的近世のものな ので、あまり絵になるものではない。

1866通りという市場通りがある。 肉屋、八百屋、お土産物屋などがあり、朝は人でいっぱいになる。 ここで桃を買ってホテルに帰って食べる。


8月9日

ここのホテルは朝食が付いている。
朝、コーヒーが飲めるのはありがたいが、ハムやチーズ、たまごもおいしく ない。 パンは普通。でも、自家製のバターケーキだけおいしかった。

今日はクノッソス遺跡に行く。
遺跡を見学する前に、ミュージアムショップをのぞいて、ガイドブックを探 していたら、おじさんが、日本語のガイドブックを差し出してくれた。 店頭にはなかったが、奥から持ってきてくれたのだ。 これさえあればクノッソスを10倍楽しめる。
王宮は大部分が2階建てで、一部は3階建て、4階建てだったという。
コンクリートで破壊防止の箇所、修復された場所がけっこう多い。
発見者エヴァンスの好みで再現されている箇所は、絵になっている予想図と だぶるが、ちょっとけばけばしい気もする。
しかし広い。
ここで博物館で見た物たちが出てきたと思うと、感慨深い。

地図を片手に確認しながら見ていく。 団体が多く、あちこちで各国語の説明を聞くことができる。
その声にに負けじと、蝉たちが競い合う。 蝉時雨というよりは、ナイアガラの滝のよう。 そして足下の地面に目をやると、蟻が忙しそうに働いている。 巣の穴がいくつもあいている。 穴はけっこう大きく、1cm以上のものが無数にある。 この地下にも、もう一つのクノッソスがあって、立派な宮殿があるに 違いない。

今日の夕食はギリシャ・ベスト3に入るレストランだ。
fish restaurant というふれこみの教会の裏の小さな店。
実はここは、観光客に無視されるような冴えない店構えのレストランだ。
魚の盛り合わせセットをオーダーする。ワインとグリークサラダも付いてくる。 いわしの塩焼、たこ、海老、メカジキがグリルされていて、焼き加減が良い。 しかもリーズナブルなお値段なのだ。


8月10日

今日はレシムノという町に行く。 イラクリオンから約一時間半。
途中の景色はすばらしく、飽きることがなかった。 海は大きく青いし、山には緑が溢れていた。
レシムノは、クレタ第3の都市で、やはりベネチア時代の城塞がある。 都市といっても、規模は小さい。 旧市街は、アテネやイラクリオンより古い素敵な家が多数残っていて、 それらを見て歩くだけで楽しいし、横丁の細い路地が絵になるのだ。

レシムノのバスステーションは町外れにあった。 まず、左手に海、右手にベネチア時代の城塞を見ながら、途中で曲がり、 町の中へ入っていく。
あちこちの横丁がいい感じ。おじいさんやあばあさんが座っていたりする。 そのうち、土産物が並ぶ通 りへ入り込む。
ベネチアン様式、ローマン様式、トルコ様式が隣り合っている。
アテネやイラクリオンの町並みは魅力的ではないが、真っ白なキクラデス 諸島を旅してきた私にとって、ここは新鮮であった。
昼食を済ませ(トマト&ピーマンの詰め物。ズッキーニの花にもご飯が詰 めてあった。ヨーグルト&ハニーはさっぱりデザートの定番だ。これは間 違いがない。) こんどは要塞に登る。 こんなところにも入場料を払う。高いところから町を眺めてみたいという のが人の常である。
見晴しがいい。
比較だけでものを語ってはいけないが、この都市型城塞は、ベネチア時代の ものと言っても、ミノア時代に比べたら、ずっと近世であるので、贅沢かも しれないが、小高いという他にとりえはない。
乾燥しているので、喉が乾く。 一日に何度もカフェのお世話になる。
帰りのバスでは疲れて寝てしまった。

バス停からの帰り道、チーズやハムが入ったクレープを買ってホテルで 軽い夕食にする。


8月11日

今日は、予定は特にない。
近所や新市街など歩いていける場所の範囲でのんびりと、散策して、過ご すことにした。 古い教会で、新しいギリシャの絵画展を見た。 教会という、ガランとした大きな空間を利用している。 しばし閑静な空間で外の喧噪を忘れる。
明日はクレタ最後の日である。 どこに行こうか考えて、やはりクレタ名物の遺跡に行くことにした。 そこまでバスで行けるということなので、バス停の場所を下見しておくこ とにした。(すごい余裕!)

クレタには二つのバスステーションがある。 一つは港の近く。もう一つは新市街と旧市街との境にある。
歩くとけっこう時間がかかるが、その間も商店は途切れることがなく続き、 ずらずらと坂を下った終点に城壁があり、バスステーションはそのとなり だった。
ここからは、観光としてはマイナーな場所に向かうのか、ローカルの人々 がたくさんいることが新鮮だった。

時刻表をもらい、少し新市街の方に抜けて歩いてみることにした。
想像以上に新市街は殺風景だった。
その中で、廃墟のような教会跡に遭遇した。
中には自由に入れるようになっていたが、ひとけはない。 暗い感じはなく、朽ちかけた壁の色が美しく、抽象画そのものだった。
映画の撮影に使えそうな場所だ。 ΠΑΝΑΝΕΙΟΝ ΑΗΟΤΙΚΟΝと書いてある。

城壁の中に再び戻ると、一転して街の喧噪に包まれた。
途中にの八百屋さんで葡萄とオレンジを買う。 店を出てすぐに葡萄をつまみ食いしたら、大粒なのに種がなくておいしい。 もう一度引き返して、更に買い足す。

地元の人たちでいつも賑わっている店が気になっていた。 それは、入り口で大きな鍋でまん丸いテニスボールよりひと回り小さいド ーナッツ(沖縄のドーナッツに似ているけど、柔らかい)を揚げ、店内に 席があり、みんなそこで食べているのだ。
そんな店はホテルのそばにニ軒 あり、いつも繁盛していた。
油とお砂糖が大好きな国民性だということは知っていたので、それは私に とって、 賭けであった。
でも、もう旅も終盤である。 食べるならもう今日しかない!
という迫られた思いで、気が付くと、私は 店の前に立っていた。
ホテルが近いのでテイクアウトすることにした。
お兄さんが、一つか?と聞くので、もしや一個でも売ってくれるのかな (味見すれば気が済むのでそれで充分だった)と思いきや、やはりそれは 一皿という意味で、数えたら7つ入っていた。
みんなは店内で、一人一皿づつ食べていた。こんなにカロリーの高いおや つを食べてもいいのだろうか?!健康志向なんてない生活ぶりが、逆にス トレスがなくて良いのかもしれない。
ホテルに戻って包みを開けてみると、ドーナッツにたっぷりとシロップが かかっている。 その上にニッキが入ったスパイスとか、ごまがたっぷりふられていた。 揚げたてなので、さほどヘビーではなかったが、2個でお腹いっぱいになっ てしまったが、無理して4個食べた。

写真を撮りに近くの数カ所の教会を回る。
いつも素通りしていたグレコ公園に行き、ベンチに座ってみたり、最後の仕上げ(?) にかかる。
再びホテルに戻り、食事にでかける支度をする。
ホテルから見た今日の景色は特別だった。
夕暮れの聖ミノス教会の背景の山が薄紫色に重なりあって、印象的だった。

食事はいつもの店。今日はおじさんたちがゲームをしていた。 先日のコックのおじさんはいないのか、ゲームに興じているのか、料理は給仕 のお兄さんだった。
今日もグリルもの中心で、海老とイワシとサラダを注文する。
焼き方は、先日の焼き物専門のおじさんの方がおいしかったが、塩味が薄く て良かった。サラダもさっぱりしていておいしかった。 パンもおいしいってことに気が付いた。


8月12日

朝早めに朝食を済ます。 銀行でT/Cをキャッシュに替えて出発。
まっすぐにバスステーションに向かう。 今日は並ぶお店には目もくれず、さっさと歩いたので15分でバスステー ションに着いた。

フェイストス遺跡行きのバスは10:30だったので、しばらく地元の みなさんにまじって時間まで待つ。 ここに座っていると、面白いやりとりを見ることが出来る。
入れ替わり立ち代わり、物売りがやってくるのだ。
パンを売る人は、テーブルの上にパンを山積みしていて、それを子供が おばあちゃんにねだって買ってもらう。
扇子売りは、黒いレースのついた扇子を広げて見せる。 すると、そこにいたおばあちゃんは、前にその人から買ったのか、自分 の壊れた扇子をハンドバッグから出してきた。センスを開くと大きく破 れている。おばあちゃんは動かずに、みんながそれをおじさんまで回し、 新しい扇子と取り替えてくれる。おばあちゃんは満足げ。
中には何を売っているのかわからないような、魔法使いのおばあさんみ たいな人も回ってくる。
ギリシャでは、未亡人は黒い服を着ているのだが、けっこう黒い服のお ばあちゃん集団も多い。 そんな風景を見ているうちに、目の前にバスが止まった。
きれいなグリーンの車体だ。 またたく間に、新市街を抜け、すばらしい景色の中をバスはひた走る。
山の斜面に描かれた、緑のパッチワーク模様の畑がきれいだ。
12時にフェイストスに着く。
思ったよりも人がいたが、クノッソスほどではなく、丘の上の見晴し の良い場所にそれはあった。
聖なる山、イダ山も見えた。 ミノア文明では神殿はない。神が降臨すると信じていた聖なる山そ のものを神殿と考えていたようだ。
中心となる中庭の軸をイダ山に重なるように設定したらしい。 内容は、クノッソスとほぼ同じ時代のもので、同じような構成だ。 ただクノッソスとはずいぶん感じが違う。 再現が行われておらず、必要最低限の補強が目立たない形で加え られているので、現代の私にとって、いにしえの姿をゆっくりと構築するこ とが出来る。
さて、フェイストスで有名なのは、フェイストスの円盤が出たことである。 このことは、イラクリオンの考古学博物館の折に述べたが、フェイストスの 円盤という名は、この遺跡で発見されたからなのだと思うと、ただのアクセサリー にしか過ぎなかった、家にあるペンダントヘッドに大きな意味を与えてもらった 気がする。

ゆっくり回ったつもりでも、クノッソスのように、並んで見学するような事が 一切なかったので、早く見終わった。
とりあえずバス停に戻ったら、マタラ行きの バスに間に合う時間だった。 予定ではこの後マタラという漁村に行こうということになっていた。
バスはこの12時50分発しかない。その後は夕方までなく、それで行っても イラクリオン行きの最終にぎりぎりという時間である。
しかし、この時間から、マタラに行くのは少し早すぎる気がしていた。
近くにアイア・トリアーダというもう一つの遺跡があるというので、 どうにかそこからマタラに行けるだろうと楽観的に考えて、そのバス(12:50発) には乗らないことにした。

アイア・トリアーダまでは3kmある。今日は暑いし、ちょうど一番暑い時間帯だ。
そこに遅れてきたマタラ行きのバスが来たので車掌さんに、もしやこのバスが アイダ・トリアーダに行くのではないかと思い聞いてみた。
車掌さんは行かないという。
アイア・トリアーダ行きのバスは、あそこのバス停に来るよと、数メ ートル離れたバス停を指した。 何時に来るかと聞くと、2時だと言う。 時間はまだかなりある。そこにはタクシーもなく、時間ももったいないの で歩き出した。
帰りはバスで帰ってくればいいし、ひょっとしたらそこからマタラ行きのバス なんてのがあるかもしれないと、都合の良いように考えた。

あまり日陰のない道だったが、とてもオリーブ畑を眺めながら、快適 なウォーキングだった。
向こうから歩いて来た人に、あとどのくらいか聞くと、30分と言う。 逆にこちらがバス停から歩いてきたの時間も聞かれた。
坂を上ってきたら、今度は下る。
海が見え隠れする。
畑がきれいだし、広々遠方 まで見渡せる。 途中では羊の群にも出会う。
理想の田舎道だ。
クレタに来てから、街歩きかバスでの移動遺しかなくて、ちょうどこんなハイキン グをしたかった。
しかし日陰が全くないので、干涸びそうだ。

やっとそれらしき場所に到着。
駐車場に車が10台くらいあっただろうか。
遺跡に通じる細い道に降りる前に、帰りのバス停を探した。
どこにもそれらしきものはない。
とりあえず下に降りると、切符売りのおじさんにバス停はどこか 聞いてみた。
おじさんはここにはないと言う。 一番近いバス停は、フェイストス、つまりここから3kmだと言う。
まだ遺跡を見る前に、力が尽きるような思いだ。
ここは切符以外のものは、水さえも売っていない。
いくら楽しんでここまで来たとは言え、今日まででの中で一番暑い 日に、また歩いて同じ道を戻るとは・・・。
とりあえず気を取り直して、遺跡に近付いてみた。
ここは離宮遺跡だ。ここも聖なるイダ山を仰ぎ見る斜面に建てら れている。
今も遠くに海が見え、回りには果実畑が広がる台地の上に位置す るが、ミノア時代には海がすぐ下まで入り込んでいたそうで、更 に眺めの良い場所だったに違いない。

時刻表によると、フェイストスからはマタラの他に、アギア・ガ リニ行きのバスがあった。それなら3時半なので間に合う計算だ。 切符売りのおじさんに、アギア・ガリニはどんなところか聞いて みると、ビーチだという。
マタラは無理なので、そこに行ってみ ることにした。
バス停に戻る3km。
一切交通手段はない。
普段からよく歩いているので、3kmくらい何でもないのだが、 この日陰のない、しかも午後二時、過酷なものがある。 とにかく歩くしかない。覚悟を決めて歩き出す。 ひたすら頑張る。
フェイストスで、カットされたスイカ(メロン&オレンジも入ってた) が売っていた。
その時食べたかったのだが、重たいガラスの器に入っていたのであ きらめた。
今度こそそれを買って食べるのだ。それと大きなサイズ のミネラルウオーターも買おう! そんなことを夢みてしか、歩けない。

道は一本道で迷う心配はない。
誰も歩いている人はいない。
時々車が通るだけ。
やっとフェイストスの遺跡が見えてきた。
私は遺跡の中に再び入り、目的の場所に何かに取り憑かれたように 足を進める。
目的の場所とは、もちろんスイカ(カットされた)売り場だ。
ここは遺跡の敷地内にある、公式カフェテリア兼お土産物屋だ。
あったあった!
先ほどと同じ状態で売られていたスイカを、テイクアウトしたい と言うと、軽いプラスチックの容器に入れ替えてくれた。
バスが来る時間もせまりつつあったので、バス停のそばの石垣の上に 座り、言葉もなく、ひたすらスイカにかぶりついた。
それがどんなに美味しかったかは、説明するまでもないだろう。

バスはほぼ時間通りにきた。座席が一部壊れたおんぼろいバスだった。
45分くらい乗り、海辺の町に着いた。
まず海をチェック!
地中海側になるそうだ。
防波堤に上ってみると、キラキラした宝石のような海が見えた。
これだ! 何よりも心に元気を与えてくれる、光る海。

カフェで休んだあと、フィッシュスープの看板があるレストランに入 る。
ここは海辺なので、海産物をぜひ食べたい。 おばあちゃんがいて、海老のサラダと魚の盛り合わせとフィッシュ スープを注文。おばあちゃんは間違えて海老のサラダのかわりに海 老のグリル盛り合わせが出てきた。こんなに食べきれないので、間違えて いることを言うと、もう作り直す時間がないと、おじいちゃんにおばあ ちゃんが言い、おじいちゃんから私に伝える。
帰りのバスの時間が19時で、それに間に合うようにと言っておい たのだ。(時間はたっぷりあったが、ギリシャのレストランでは時 間がかかるので、予防線をはっておく) おばあちゃんはそれ以来、奥に引っ込んでしまい、せっかくおいし かったのにそれを伝えられなくて、悪かった。

ところで、フェイストスのバス停で会った車掌さんの言ったことは、 何を意味していたのだろうか。
アイア・トリアーダと書かれた印刷物を見せて言ったのに。
もしかしたら、アギア・ガリニと似ているので、間違えたのだろうか。
それでも、時刻表にアギア・ガリニ行きの二時のバスなんてなかったのだ。
謎は深まる一方だが、アギア・ガリーニに行く事ができたので、結果オーライ ということにした。
なお、アギア・ガリーニから、ボートが出ていて、世にも美しい 海岸に行けるということだった。

8月13日

朝はゆっくり支度をして11時半にチェックアウトした。
空港に早めに着いたので、免税店をチェック。
ブランドものは少ないが、クレタの物産はけっこう充実していて、しかも安い。
袋入りのオリーブとか,グリークコーヒー、ピスタチオが入ったチョコレート (これは美味しかった!)など買う。
アテネに着いたのは3時。 三週間前に泊まったシンタグマのホテルに直行する。
せっかくその時予約をしたのにツインじゃなくてダブルしかないという。
当初は二日泊まる予定だったが、クレタ滞在を一日延ばしたため、 一日ここでの滞在は減らした。そのことはクレタ滞在中に電話を入れて いる。
レセプションのお兄さんはこちらの顔を覚えていて、悪いとは思ってい るらしいが、作ったような言い訳をしていたので、納得できず、近くの ホテルを探して見つからなかったら戻ってきますと言って、急遽ホテル 探しとなってしまった。
これがいやだから予約しておいたのに!と思うが、 こんなことでいちいち怒っていたら、ギリシャではおこりんぼさんになっ てしまう。
幸いそこから150mほどの場所でホテルも見つかり、荷物を部屋に 置いて、最後の観光に出掛ける。

この近くには歩いて行ける遺跡がたくさんある。 まずはローマ時代のアゴラに行く。(ギリシャ時代のアゴラだけでは 手狭になり、前一世紀にもう一つのアゴラが造られた)
真ん中にあるのは風の塔。シーザーがアテネ市民に寄贈したと伝えら れている。 上部のレリーフが鮮明に残されている。
そこから地続きの更に古いアゴラに行く。 ちなみにアゴラとは古代ではいろいろな役割を持っていたが、その 一つが市民のための市場という意味で、現代ギリシャでも、アゴラ と言えば市場のことだそう。
アッタロスのストア(2階建ての長細い建物)を横目で見て、ヘフ ァイストスの神殿を見る。保存状態がよく、見栄えがする。
このあたりは、時代を異にする遺跡群が立ち並び、列柱のかけらな どがそこここに置いてある。 常に上を仰げばパルテノン神殿があり、初日に上から見ていた場所 に今居ることになる。 (公衆電話があったので、ここでmrガルビスに電話した)

まだ日は暮れていないが、19時半にはどこの遺跡もクローズにな る。残念ながら、二つの劇場に入ることは出来ず、明日に持ち越す ことにした。
ぶらぶら歩いて行くと、モストラキという駅に来た。
この駅に私は行きたかったのだ。
それと言うのは、三週間前に地下鉄からかいま見た風景に憧れてい たからだ。
地下鉄と言えどもピレウス行きの線は地上に出る箇所がある。
地下鉄の窓から見た風景とは、道ぞいに長々と並ぶいくつものカフ ェやタベルナ。
三週間前もここで降りようとしたら、急行だったのか(そんなの あるのかわかんないけど)止まらず次の駅に行ってしまい、あき らめたのだった。
実際はカフェで、夜は食事もできるようになっていた。 ここはすぐそばにさっき見た遺跡群があり、アクロポリスが見渡 せる、素敵な場所だった。 すぐ横を地下鉄が通ることが、現実的だったが。

入った店はとてもお洒落で、メニューはかわいい絵本の上にサインペンで手書きで文字が 書いてあった。
小さいディップが二つ。トマトとツズキ(キュウリとヨーグルトの サラダ)。 そしてアンティークの缶 が出てきた。 蓋を開けると、2~3種類のおいしいパンが小さく切られて入って いた。繊維のギュッと詰まった、しっかりした味のあるおいしいパ ンだった。
チキンと温野菜のプレートやボカドの入ったサラダを食べる。
ギリシャ料理というよりは、多国籍料理のようだが、おいしかった。


8月14日(最終日)

パッキングだけ済ませ、チェックアウトする前に、これが本当に最後の 観光に出掛ける。 ホテルを出て、まず、左方向へ行き、二つの音楽堂の方向へ。
古代劇場は各地にあり、もっと立派なものもあるが、ディオニソス劇場 のすごいところは三大悲劇詩人アイスキュロス、ソフォクレス、エウリ ピデス、喜劇詩人のアリストファネスなどの傑作の数々が初演されたと いう輝かしい歴史を持つ場所なのだ。
もう一つのイロド・アティコス音楽堂は夏の間、様々なコンサートが催され、 今も使われている。見学はできない。

そろそろ陽も高くなってきて暑い。アテネは暑い。 昨日食事をしたモナストラキにたどり着く。 今日はマーケットがあいている。 にぎやかな店や行き交う人々のあいだを通って、ホテルに戻る。
チェックアウトして荷物を預けてまた出かける。
最後にカフェでのんびりするためだ。
すでに旅は終わりにさしかかっている。
帰りのチケットもあるのだから観念しなくてはいけない。 しかし寂しいものである。 旅の終わりというものは・・・。
いつも思う。旅は3日であろうと3か月であろうと、最後に思うことは いつも同じ。
最初に成田を出て現地に着いた頃が無性になつかしく、期待に満ちあ ふれ、はしゃいでいる少し過去の自分自身がうらやましく思えるのだ。
始まりがあれば終わりがある。 ただ、終わりの頃の自分は、旅に行く前の自分と比べて、ほんの少し だけ成長しているかもしれない。
現地の人たちとの触れ合いを通して元気をもらったり、旅の方法を少 し学んでちょっぴり自信がついたり、出会いというのは人を変えるも のだと思う。
しかし、今は妙に寂しい。


帰りの飛行機は、行きに比べてだいぶ楽だった。
アテネからバンコクまでは9時間50分。
着いたのは朝のバンコク。朝日がきれいだったので、写真を撮ろうと 思ったらレンズが飛び出す間にすでに風景が変わっていた。
こんどの待ち合わせは1時間強。物足りないくらいに短い。
この時間は、ラッシュ時間か、相変わらず混み合っている。
最後はバンコクから成田まで、6時間10分。
アテネに行くにはアジア便も悪くないと思う。 ヨーロッパ便だと、東へ戻ることになり、時間もかかるからだ。
機内食はもっとタイ料理を出してくれたらと思う。 (グリーンカレーのようなもの出たが、おいしくはなかった) ステーキは肉厚もあり、おいしいのかも知れないが、ギリシャで 重い食事を取り過ぎたせいか、食欲が湧かず、帰りはほとんど食事に手を つけなかった。

一度だけ日本に電話した。 聞かれたことは、 『そちらは天気はどう?』
・・・どうもこうも、毎日晴天しかない。
ところが、成田に着いたら、雨は降っているし、18時で真っ暗。
・・・毎日のように陽を浴びて、真っ黒になっていたので、 とても不似合いで、気恥ずかしくもあった。


付録: プカプカ警察

みなさんは、スリに遭ったことがありますか?
こればっかりは、さすがに自覚症状がなく、もしかして、 自分がどこかに置いてきたのではないか・・・などと考え、 スラれたことを人はなかなか認めません。
そして、自分だけには、こんなまぬけなことが起こるはずが なかろうと信じているようです。
確かに気を抜いている時に、事が起こる可能性は高いのですが、 誰の身にも降り掛かってくる真実なのです。
私の母もそうでした。

あれは、8月3日のことでした。
朝、フィラにある小さな考古学博物館を訪ね、その後、アクロティリ 遺跡を見学の後、赤い砂のビーチの景観に感動した、思い出深い一日 でした。
その帰りにクレタ島行きの船の切符を買うためだけに、フィラに行き ました。
それが財布からお金を出した、最後の時でした。
その後、お店に一軒寄っています。そしてバスでホテルに戻ったのです。
まだ明るかったので、隣町のカテラードスまで散歩に行きました。
ほとんど人とすれ違うことはありませんでした。
町を探検して、白い路地に青いペンキで花の絵が描かれた道をみつけたのも この日でした。
帰ってから、財布と小銭入れがないという事にやっと気が付きました。
いろいろ考えても、クレタ行きの切符を買って以来、財布も小銭入れも 使っていないのです。 バス代などは、私のお財布から出したので。
幸い財布の中には1万円強の現金とクレジットカードが一枚しか入って おらず、小銭入れの方も、千円くらいな金額でしたので、すぐにやるべき事 は、クレジットカードをストップさせることと、警察に届ける事です。
クレジットカードの方は、日本に電話し、すみやかに事が運んで、すぐに ストップすることができました。
あとは、警察に届けを出すことです。
保険と言っても、現金は戻らない事はわかっていましたが、カード会社に 届ける際に、警察の書類が必要になる場合があります。
ここから、私の警察との戦いが始まりました。

翌日、朝一番に警察に行きました。 場所は、前日もお散歩に行った、カテラードスの町です。実はフィラには 警察がなく、ここが、メインの警察署なのでした。 とは言え、六帖ほどの広さの、交番よりひと回り大きいといった程度の ものです。
そこには中年の警察官が一人でいました。
事情を話すと、今はその書類を作る権限のある者がいないので、あと2時間後 に来てくれと言います。 半端な時間だとは思いながら、フィラに行き、雑用を済ませると、ちょうど いい時間になり、再びフィラからバスに乗って警察所へ。
すると、朝とは一変して、警察官が6~7人、狭い部屋にいます。その人たちが そろいも揃ってカッコイイのです。
確かアテネの衛兵は身長や容姿で選ばれていたというのを聞いたことがあった けど、警察官もそうなのでしょうか?
私は、最も偉そうな人の手が空くのを待っていました。
すると、その中でも特別にカッコイイ、ブラッド・ピットにそっくりな、 いや、もっとカッコイイ一人の警官が近付いてきて、私に用件を聞いてきました。
私は、うっとりしながらも、きちんと趣旨を伝えました。 すると、ブラピは、私たちがいつ島を発つのか聞いてきました。 3日後の8月7日だと言うと、それならその前日の6日に来いと言うのです。
そこには誰もが触れる棚の上に、大切そうな書類と共に、たくさんの財布や パスポートが無造作に山積みされていました。 ブラピはそれを指して、財布が出てくるかもしれないと言うのです。
実は私はブラピより、ジョニー・デップが好きな方ですから、負けては いませんでした。 しかし、財布が出てくるかもしれないと信じるブラピの気持ちには揺るぎない 自信があるようです。 もちろん、財布だけでも出てくればうれしい。特に小銭入れは、高価 なものではないけれど、春にニースで買った、皮の色といい、柔らかさ といい、いい風味を出していた手作りの品だったので。
朝来た時は2時間後に来いと言われたから来たのに・・・。
納得はいきませんが、すごすごと一時退場するしかありませんでした。
午後はペリッサビーチに行き、きれいなビーチと素朴な町並みを堪能 し、バスでホテルのあるバス停へ。 ・・・・行くはずが、ホテルのカードを見せたのに、ドライバーが間違えて、 一つ先のバス停まで行ってしまいました。
バス通りを歩いて戻れば歩いても5分ほどでしたが、ここからカテラードスを 通ってお気に入りの田舎道を通 って遠回りして帰ることにしました。

その時、再びひらめいたのが、警察に寄ることでした。
ブラピさえいなければ、もしかして、事が済むと考えたからです。 果たして、ブラピは・・・ いなかった。
しかも、警官は偉そうな人が一人だけ。これはまたとない チャンスでした。
ただ、そこには4人の先客がいて、その警官に書類を作成してもらって いる最中でした。 4人はイタリア人のグループで、こちらは深刻でした。
レンタカーを盗まれたのです。
車の座席には、免許証、財布(130ユーロ入り) たばこ(たばこと言ったのは、シャレだったらしいけど)が置いてありました。
あの、イタリア人がこんなところで被害に遭うなんて・・・日頃は平和な島だけど 夏の間は島の人口の数十倍の人がやって来るわけで、油断はできないのです。
偉そうな警官は、代表者の住所、パスポートナンバー、父親の名前まで 書類に書き込んでいました。
もう、私たちの順番は秒待ちでした。
警察官は一人だと思っていたら、その後ろのドアに長さ15cm、高さ7cmの 小さい窓が付いていて、そこからニヤケた男の目が見えるのです。 ちょうど男が立つと、その位置が目になるのですが、男はそこからこちらの 様子を覗いて、ニヤニヤしているのでした。

さて、イタリア人グループの書類作成もほぼ終わりという時、ざわざわと 帰ってきた一団の警察官。
そこには、まさかのブラピの・・・姿がありました。
私は、昼に来た東洋人とは別人を装い、小さくなっていました。
しかし、ブラピはそれを見逃しませんでした。
近付いてきて、
「何でまた来たの?僕の言ったことがわからなかった?」 私は少し抵抗をしましたが、正義感の強いブラピの、財布は戻って来ると 信じる情熱には勝てず、一日に三度の挑戦もむなしく、夕陽を浴びながら, 田舎道を帰るしかありませんでした。

一日置いて、いよいよ6日、ブラピに来いと言われた、サントリーニを発つ 前日となりました。
朝、まず仕事を済ませようと警察に行きました。
今日はブラピの姿はありません。
中には若い女性の警官が一人と、偉そうな、書類を書くには申し分のない警官が座って いました。
私は自信を持って、いきさつを説明しました。
すると、その女性が質問してきました。
「 いつサントリーニを発つのか?」と。
自信を持って、明日だと答えると、何時か聞いてきました。
「 17時半だ」と言うと、 では、明日来なさいと言うのです!!!
もしかすると明日までに財布が出てくるかもしれないと言うのです。
偉そうな人は英語が話せないらしく、別の書類を書いていました。
私は頭がくらくらしてきました。
そして、さっきから感じるニヤニヤ光線。
見ると、おとといのニヤけた男が まだ同じようにドアに付いた小さいまどから、目だけを出して、覗いている のでした。この状況から見ると、男は、何か軽犯罪で拘束されているよう でした。

決して、仕事を先延ばしにしたり、たらい回しにするつもりはないのでしょうが このスピードにはさすがについていけません。
でも、この女性も、財布が出てくると信じているのです。
私は書類の必要性と、今日ここに来いと言われて来たのだということを 説明しましたが、なかなか聞き入れてもらえません。
あ~っ、こんな時にブラピが来てくれれば一発で解決だというのに、こんな時には 一向にその気配はない。
私は、それではサントリーニの最後の観光がなくなるということを熱弁して、 ようやく女性は重い腰を上げたのでした。
昨日のイタリア人の時のように、聞き取り調査はなく、書類を渡され自分で 書けと言われました。 逆にその方が早いので、こういう書類を書き慣れて(!?)いる私は、 時間がもったいないので急いで済ませると、女性はそれを見ながらギリシャ語 で書き直し、きれいな字で清書してくれました。
若い女性だったので、あれだけ気を持たされた書類を処理できるというのも 意外でした。 結局、偉そうな人はいなくても変わりはなかったのでした。
この書類を大切に持って帰ったのは言うまでもありません。

帰ってカード会社から連絡があり、届けを出した後に、一度使われて いたことがわかりました。なくしたカードは、顔写 真入りで、サインも漢字でした。 東洋人も少ない島で、ネットの買い物でもなく、レストランで堂々と 使われ、店の人も気が付かなかったといのも驚きでした。
そして、この時こそ、この警察の書類が威力を発揮したのでした。

ヨーロッパ各地では、あきらめも肝心。
そしてねばりも肝心なんです。




ミスターガルビス

荷物を受け取ると、前回の旅行で買ったスーツケースの鍵が壊れていた。 壊されたのか壊れたのかはわからないが、紛失物はないか、ざっと調べたが、 特に問題はようだった。(もともとスーツケースには一切金目のものも、大切な ものも入れていない。)
一応空港でクレームをつけたが、タイプされた紙(日付けや乗ってきた便名、 私の名前がタイプされている程度の簡単な、わら半紙をちぎったような紙切れ)と、そこに書かれた電話番号を渡され、Mr. ガルビスに連絡しろという。
どうして電話しなくちゃならないのかの説明もなく(ギリシャの人は英語は一通り しゃべれるが、面倒な説明はしたがらない。)電話するとどうなるかもわからない まま、その場を離れるしかなかった。

次の日Mr.ガルビスに電話すると、彼は一週間休暇中だから、それからだと言う。
電話出た人に用件を言うと、自分は今トレーニング中だから、もう少ししたらでき るように(何が?)なるんだけど・・・との事。

そのあと電話したのが、クレタから。 8月12日だった。
Mrガルビスはいなかった。 電話にでたジョンと話をした。
今どこにいるのか聞かれたので、クレタだと言った。
いつアテネに戻ってくるか聞くので、13日(翌日)と伝える。
いつアテネを出るか聞くので14日と伝える。
それならアテネに着いてから、5時半に電話してくれと言う。

8月13日、約束には少し遅れたが電話をする。
今日の相手は、かなりナマリが強い。
そして、ギリシャ語はしゃべれるか?と聞かれる。
noと言う。(noに決まってるじゃん!)
私は強引に用件を伝え、明日アテネを立つんだと強調する。
名前を聞かれたので伝えると、日本人かと聞かれる。(何でわかるの?)
自分の仕事の時間はあと10分で終わるし、時間がないという。
成田で手続きをしてくれと言う。
あ~、今日までのやりとりはいったい何だったのか。 期待はしていなかったが、ある意味期待(予想)どおりの展開。
最後に、電話の向こうの相手の名前を聞いてみた。
それは、Mrガルビスだった!
私は思わず、ずっとあなたを探していたのですよ!
やっとつかまえた! と叫んだ。
人の善さそうなMr.ガルビスは、いい旅を!と言ってくれた。

あ~~~~~っ。 ギリシャの旅行はすべてこんな感じ。 今までの旅行でいろいろ学んだつもりだったが、まだまだ甘かった。 (スペインなどで、かなり勉強してきたと思う。)
責任転嫁、先延ばし、いい加減さは日常茶飯事。
こんな調子で、旅行中たくさんのMr.ガルビスに出会った。
彼等は問題を先延ばしにしたり、適当な言い訳やとりつくろいをしてきた。
特におじさん(40~60歳)が怪しい。
もう、みんなが適当というか、大雑把というか、いい加減というか、もしかして 不親切?と、疑うような時もあったほど。

道を聞くと、あっちだ!という指をさす範囲が大きくて、方向がわからない。
この道を行けばいいと言うので、まっすぐ行くと、何回か曲がらなくてはいけなかったり。細かい説明はない。
普通でも、ヨーロッパでは念を入れるなら、3回は 人に聞いた方がいいと思っていたが、ここでは、10人くらいに聞かないと、目的地 にはたどり着けない。
とにかくいい加減。聞かれたら、その場だけやりすごせばいいという感じ。
知らなくても、知っているような顔で、しっかり自信顔で回答してくれる。
その後、人がどうなろうとおかまいなし。
こちらも、大雑把にしか信用しないから、カンも働かせ、いくつものケース (オプション)を見込んでメッセージを受け取る。

でも、そんな人たちと出会うのが、私の旅なのだ。
そんな人たちはいつもなぜか憎めない。
けっこういい思い出になるものなのだ。

さてさて、更なる後日談。 成田に帰国して、スーツケースの紛失のクレーム係へ(今までも、ずいぶん被害に 遭ったけど、クレームは今回が初めて)行く。
使いものにならないほど、潰されていたスーツケースもあった。
それに比べたら私のは、小さい被害なんだけど、このスーツケースの場合、鍵が かわいかったので、ぜひ直したい。
まず、ガルビスについて説明と私も言い訳を。
そして書類を(紙切れ)渡すと、
「これでいいですと。」
言って、コピーをとり、指定の住所に宅配便(着払い)で送れば、1か月(メーカ ーに回すので:普通なら1週間)で 直るでしょう。とのことだった。
ガルビスさんに時間があったら何をしてくれたのか。 もしかしたら、直すっていう意味だったのかな?
あのわら半紙をちぎった紙切れにこんな威力があったとは・・・。