その最高に甘い理を
2008/0418
written by Miyabi KAWAMURA
「ねえ、グラハム」
それまで黙っていた男に突然会話を振られ、しかしグラハムは驚くことなく、そちらへ顔を向けた。
「どうした」
「別に、くだらないことなんだけどね」
言いながら、男は――MSWAD技術顧問であるビリー・カタギリは、何事かを書き付けていた紙をクシャリと握り潰して、ぽい、とゴミ箱へ放り投げると、また新しい紙を手に取り、再びペンを走らせ始めた。
「トポロジー理論。知ってるかい?」
「いや」
「旧世紀に流行った理論だよ。ドーナツとマグカップは同じものである、っていう奴さ。……ほら、ちょうど今、君が食べている物が正にそれだ」
「なんだ、気付いていたのか」
「そりゃ気付くよ」
さっきから甘い匂いがしてると指摘され、グラハムは少し笑った。
身体を預けているソファの横、サイドテーブルに乗せた箱の中には、大量のドーナツが詰め込まれている。これは他でもないグラハムが、研究室に篭りきりになっているカタギリへの陣中見舞いとして持参したものだ。
……とは言っても、当のカタギリはデスクに向かいっぱなしで、ドーナツに未だ手を付けてはいない。それどころか、部屋を訪れてきたグラハムに対しても背を向けたまま生返事を返すだけで、二人の間には今までろくな会話もされていなかった。――尤も、グラハムからして見れば、カタギリのこんな反応は慣れたものである。普段、穏やかで人当たりの良い態度を保持しているこの技術顧問は、研究が煮詰まってくると、まるで絵に描いた科学者よろしく、それに集中して掛かりきりになってしまうのだ。
「悪いな。お前への差し入れだったんだが、先に貰った」
「構わないよ。僕も、後で有難く頂戴するから」
「オールドファッションは残しておく」
「それはどうも」
会話の間も、カタギリの手は止まらない。……末期だな、と、グラハムは確信した。
グラハムの愛機がフラッグであるのと同じく、カタギリの愛器は、彼好みに明度が調整されたモニターとキーボードだ。
技術顧問として任された仕事をするときも、そして個人の研究をするときも、カタギリはいつもコンピュータを駆使している。なのに時折、彼は思考を繰り広げる為の場を、モニターから紙上に移すことがあった。それは、彼が煮詰まっているとき――彼の求めている答えがもうすぐそこに近付いているときの合図のひとつで、グラハムとカタギリの決して短くはない付き合いの間にも、何度か見られていた光景だった。
確かに、素早く正確な理論の構築がしたいだけなら、キーボードを叩き演算をコンピュータ任せにする方が効率的だろう。けれどなんとなくグラハムには、紙にペンを走らせて、一見して無駄とも取れる労力を払っているカタギリの気持ちが、分かるような気がしていた。
紙の表面をペン先が擦る、さらさらという音。
束ねられ、捲られる紙が立てる、乾いた僅かな音。
頭の中で形作られようとしているものを、早く。少しでも早く掴み取りたい。
……そんなカタギリの気持ちが、広がる思考をひたすらに紙に書き綴るという行為には溢れ出している。そんな気がする。
キーボードの上で迷い無く動くカタギリの手も好きだが、時折何か思案するように動きを止め、そしてまたすぐにペンを走らせるカタギリの手も、そのどちらもグラハムは気に入っていた。緊張と高揚がない交ぜになった作業と時間の後、出来た、とカタギリが呟いて、纏めた紙の束をとん、と机の上で鳴らした数日後には、フラッグのパイロットである自分の出番が待っている。
もっと早く、もっと強く。もっと高く。
グラハムのその願いをカタギリは叶えようとしてくれている。
今のこの時間も、その為に費やされているのだと思えば、グラハムにとって苦に感じることは何も無かった。
「それで、話の続きだけど」
遠くない未来に、更なる改良が加えられるであろうフラッグの性能は、一体どれだけのものになるだろうか。そう考えながら、緑色の目に楽しそうな彩を浮かべて指先についた生クリームを舐め取った刹那、耳に届いたカタギリの声にグラハムは瞬きした。
「……続き? トポロジー理論とやらのか」
「そう」
頷いたカタギリは、重ねた紙をゆっくりと捲りながら、話し始めた。……右手には、まだペンを持っている。ゴールが近いのか否か。流石にグラハムにも、そこまでは分からない。
「簡単に言うとね。宇宙のありとあらゆるものは、突き詰めればドーナツ型の、要するにシンプルを極めた、リング状の”もの”として考えることが出来るっていう理論だ」
「……で?」
「一つのドーナツの形になるものもあれば、複数のドーナツが組み合わさった――そうだな、知恵の輪みたいに絡まった形になるものもある。最終的に、この世にある全てのものは……八通りだったかな、いや、十一通りだったか……まあとにかく、相当に少ない種類のものとして、分類して片付けることが出来るんだ。その理論上ではね」
「おいカタギリ。お前の説明は、重要なところが欠損している風に聞こえるぞ」
「正確に何通りに分類出来るのかは、この際問題じゃないんだよ、グラハム」
溜息混じりに諭されて、グラハムは僅かに眉を寄せた。
最初から、ただでさえ訳の分からない会話である。その上更に謎掛けじみたことを追加されても、どうにも答えようが無かった。
「じゃあ何が問題なんだ」
聞き返すと、思いの外あっさりと、カタギリは解答を晒した。
「問題なのは、僕が今取り組んでいるこの難問までが、理論の上ではもの凄く単純でつまらない一事象として片付けられてしまうっていうことさ。……君に、退屈な思いをさせて待たせているっていうのに、これは結構に切なくて酷いことだと思わないか? 本当に、申し訳なくて涙が出るよ」
声に苦笑を滲ませてぼやく科学者の後ろ姿を、グラハムはしばし黙って見詰めた。
さらさら、と、カタギリは再びペンを走らせ始める。が、その手がぴたりと止まった。……何か迷っているのか、今度はなかなか動き出そうとしない。
と、そのとき。
「……聞け、カタギリ」
先んじて動いたのはカタギリの手ではなく、グラハムだった。
ソファから立ち上がり、テーブルの上から、甘い匂いを撒き散らしている箱を持ち上げる。
そのまま数歩の距離を歩くと、グラハムはカタギリの眼前に、箱詰めにされたドーナツを突き付けた。
「これを見ろ」
「……凄い量だね」
「全種類一つずつ、と言った」
どこか得意げに言うグラハムの緑色の目と、箱の中のドーナツとを交互に見遣って、カタギリも笑った。
「それで、このドーナツが、どうかしたかい?」
「そうだ。ドーナツだ」
よく見ろ、ともう一度言い置いて、グラハムは言葉を続けた。
「私が食べてしまったから減っているが、最初この箱の中には三十五種類のドーナツが入っていた。お前はさっき、”自分の抱えている難問が単純でつまらない一事象として片付けられてしまうのは切ない”と言ったな?」
確かめる様に首を僅かに傾げたグラハムの金色の髪が、揺れる。
「言った、ね」
「だったら。その嘆きは無用だということだ」
グラハムの声には迷いが無く、むしろ、弾むように楽しげですらあった。
「八通りだろうが十一通りだろうが、それ以上でも確かに関係ない。大切なのは、その組み合わせを作り出すドーナツ自体の数が、三十五種類もあるということだ。三十五種類のドーナツを使ったら、何種類の組み合わせが出来ると思う? それこそ無限大だ」
一息に言い切って、グラハムはカタギリが手にしている紙の束を……カタギリの思考の塊を、ぴしりと指差した。
「要するに、お前が直面している難題とやらも、ドーナツによって構成されている限り、存在意義と発展の可能性は無限大であるということだ」
これで納得しろ、と。
駄目押しするかのように渡された、ドーナツの箱。
それを受け取り、ずっしりとした重さを自覚した瞬間。
カタギリは思わず、声を立てて笑っていた。
「……っ、グラハム、君はやっぱり凄いよ」
前向きというか、強気というか。
ドーナツと一緒に提唱された君の理論に、完全に呑まれてしまったじゃないか。
笑みの合間に讃えてみせたカタギリに対して、しかしグラハムは逆に不満げだった。
「笑い過ぎでは、誉め言葉も信頼性に欠けるぞ」
「だって、まさか、そう来るとは」
「……いいから最後まで聞け」
ふと改まった相手の声音に気付いたカタギリが見遣ると、緑色の双眸は、真直ぐにこちらへと据えられていた。
「私は空が好きだ。もっと早く飛びたいし、高いところにも行きたい。勿論それだけでは我慢出来ない。他のどのモビルスーツよりも、フラッグは強くなければならないとも思う。……お前の作る機体だけが、それを可能なことにしてくれる」
だから、と、グラハムは一度、言葉を切った。
「お前がその為に費やしてくれる時間と気持ちは。私にとって、フラッグと同等以上に得難いものだ」
ひとことずつ、ひとこえずつ。
大切に、確かめるように音にされていくグラハムの胸の内に、カタギリが息を止めた、瞬間。
「……やはり、回りくどいのは性に合わない」
ひどく楽しげな、笑みの後。
「……グラハム?」
「こういうときこそ、単純に、だな」
続けられたのは、如何にもグラハムらしい、一言だった。
「ビリー・カタギリ技術顧問。善戦を、期待する」
軍の教則本にも載れそうな、綺麗な敬礼と共に掛けられた言葉。
それを受け止め苦笑いして、カタギリはゆっくりと口を開いた。
「……エーカー中尉の、お望みのままに」
君には本当に敵わないよ、と言ってペンを置いたカタギリがドーナツとひとつ摘み上げると、途端、グラハムが嬉しそうな声を上げた。
「やはりな! お前は、絶対にそれを選ぶと思った!」
「うん。美味しそうだね」
差し入れありがとう、と遅ればせながらの感謝の意を伝え、カタギリはドーナツを一口齧った。芳香が広がり、ほろほろと柔らかに、舌の上で甘いものが崩れていく。
……これを食べ終わったら、グラハムと一緒に飛行訓練場に行ってみようか。
そう考えて、カタギリは傍らに立つユニオンが誇るエースパイロットを見上げた。
「どうした、カタギリ?」
「なんでもないよ」
怪訝そうな表情を浮かべた相手に微笑して返して、カタギリは未だ左手に持ったままにしていた紙の束を、机の上にそっと戻した。
そうだよ、なんでもない。
……ただ、君が空を翔ける姿を見た後なら、それなら。
ずっと求めている答えを、この手にも掴むことが出来るんじゃないかと、そう思っただけで。
>>fin,
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