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水底のマリア−終幕−ここにいないきみだけが。
written by Miyabi KAWAMURA
2007/0120

それは全ての終わりの様な、始まりの様な記憶。






 沈みゆく街の話を、恭弥にしたことがあった。



 ラグーアと呼ばれる広大な干潟の上の、自然に出来た浮島をひとびとが不自然に繋いで作り上げた街。ヴェネツィア。

脆弱な地盤(と言うべきではないのかもしれない。「地」と呼ぶには、あの街の根底には水が浸り過ぎている)は、数万もの人間と幾千もの石造りの建物を受け止めるには力足らずで、数百年間、ゆるゆると続いている地盤沈下と、そしてひたひたと上がり続ける海面に襲われ、あのとき既に限界を迎えていた。


「ガキの頃、道に迷って本気で死ぬかと思った」

「手の掛かるひとだね、昔から」

「いや、町全体が、でかい迷路みたいになってるんだぜ」

「……へえ」


 オレと顔を合わせるとまず愛用の武器を構えて屋上へ向かおうとする恭弥が、あのときは珍しく、会話を優先した。

手に持っていた、風紀活動に関するものらしいプリントを机の上に置いて、頬杖。

次の春には並盛を卒業することになっていた恭弥は、殆ど私室と化していた応接室から、自分の気配を消す作業を始めていて、別に机やソファの配置が変わった訳でもないのに、部屋の雰囲気は訪れるたびに少しづつ色を変えていた。




(それで?)


話の先を促すようにオレを見た恭弥に頷いて、オレは言葉を続けた。
伝えたかったのは迷子になった話なんかじゃなくて、その先だったから。


「いつも寄る教会の地下に、すげー古い聖堂があるんだ」


訪れる信者の為ではなく、教会の中の人間の為に作られたらしいその部屋は、冷たくて静かな空気をいつも湛えていた。

余計な装飾がひとつも無い、ただ祈る為だけの小さな部屋。

石壇の上に置かれた聖母の像は、古いものなのだろう。
真白い石で作られていた筈のそれは、初めて目にしたとき、既に薄茶色に汚れていた。けれど逆にそのお陰で、精巧な作り物めいた聖母の顔には、人肌に似た柔らかさが漂っていて、オレは生まれたときから通っている地元の教会にある聖母像の次、……否、それと同じ位に、「彼女」のことが好きだった。


「あの部屋を見つけたのは、本当に偶然だったんだけどな……」


思い出す空気の静謐さが、上手く恭弥に伝わるだろうか。
そう考えながら、オレは慎重に言葉を選んだ。


「その後も、何かあると其処に行って、ボンヤリしてた」

「ひとりで?」

「ああ。理由は判んねーけど。……落ち着いたんだ。あの部屋に行くと」



裏社会に繋がる家に生まれたことも、ファミリーを継ぐことも。

子供の頃は自分を取り巻く環境に抵抗を感じもしたが、結局のところオレにとってはその全てが必然で、今では否定するつもりも、投げ出すつもりも無い。
ただそれでも、普段心の奥の方に置いてあるものを一人で確かめたくなる瞬間というのは時々あって、そんな時、オレの足は、隠れ家のようなあの場所へ自然と向いていた。


「彼女」はただ、いつもそこに静かに居るだけ。
オレも別に、懺悔がしたい訳でも祈りたい訳でも無かったから、それで良かった。ひたすら静かな空間にひとりで居るという、その「非日常的な瞬間」が欲しかったのだ。


一度、連れて行きたかったな、恭弥を。


……と。
恭弥の黒い目を見ていたら、オレの口からひどく無防備に言葉が零れ出た。


「過去形なの?」


聡い相手は、すぐに気付いたらしい。

「ああ、過去形」

鸚鵡返しにして、オレは頷いた。



「無いんだ、もう」



最後に訪れたとき、あの部屋へ続く階段には板張りがされていた。

固く閉ざされた道。

多忙を極め、訪れる機会を逃したまま数年を経た内に、ヴェネツィアの中でも古い区画にあった教会は、沈む地盤と繰り返される浸水に負けてしまっていた。


地下にはもう水しか無い。
ひとを入れる訳にはいかない、危険だから。



そう告げられたあのときに、オレは大切なものをひとつ、失った。



 そのときのことを思い出し、オレは意図せず溜息をついていた。
かたん、と小さく椅子を鳴らして執務机から立ち上がった恭弥が、窓辺にいたオレの隣にやってくる。

「話が終わったなら、僕と戦いなよ」

……と言われるとばかり思っていたのに何故か、恭弥は黙ったままだった。


隣に立つ恭弥がオレを見上げ、オレは、見下ろす。


戸惑いも迷いも躊躇いも無い、ただ黒くて綺麗な色をした目。
それから視線を外せずにいたオレの頬に、恭弥の指が伸びてきて、触れた。



「さみしいの?」



純粋な、疑問の言葉。
触れているオレ自体が不思議なことの原因であるかの様な表情で、恭弥は言った。



「……かもしれないな」



いままでも、これからも、ずっと。
そこに居て、無くなる筈がないと思っていたものだから、尚更に。


さみしいのかもしれない。


と、オレが思った、そのとき。





「無くなったわけじゃない」





恭弥の声には、戸惑いも迷いも躊躇いも、ましてや憐憫も慰めも無かった。

それはただ、純粋な。



「無くなるわけじゃない。ただ、会えなくなるだけだよ」



純粋な、断定の言葉。




「そうか……」



恭弥の、彼が彼たる所以のその言葉に、オレは笑った。


「強いな、恭弥は」


そう答え、自分に触れる恭弥の手を、上から包む様にした。

身体のどこもかしこも細い造りをしている恭弥の指はやはり細くて、愛用の武器を振るっている姿を他の誰より間近で見ているオレですら、あのとき、信じられない様な思いに駆られていた。



「……強い、とかじゃない」



ただ、そう思うだけ。



オレの目の前で恭弥の唇がゆっくりと動き、声を零した。そして。



あの日を境に、恭弥はオレの前から、いなくなった。








 あれから、数年が経つ。



指輪守護者の話は、ボンゴレとキャバッローネ、互いの機密に触れない範囲でならば、幾らでも耳に入ってくる。守護者の内、誰かが欠けたという情報は今のところ無いから、恭弥も無事でいるのだろう。


オレと恭弥が離れた(否、離れざるを得なかったと言うべきか)理由。


その内の殆どは、互いの立場を鑑みるに極めて正論で納得するしかないもので、むしろオレ達が共に時間を過ごすことが出来た当時のあの状況の方が、イレギュラーだったのだ。



あの日、確かに触れていた互いの指。

黒い目を見ながら呼ぶのは最後だったのに、それを知らず声にした名前。



恭弥に関る全てのものが、酷く得難くそして失いやすいものだったのだとオレが自覚したのは、恭弥と離れてから、だった。


会えなくなるだけ、と、そう言った恭弥の声。


その声が耳に残っているから、無くしたとか別れたとかそういう単語をオレは使わずにいて、多分恭弥もそう考えてくれてるんじゃないかと、勝手に考えている。

否、耳にだけじゃない。
触れた身体のあたたかさも、戦っているときに見た黒い髪が揺れる様も、抱いた吐息も全て、オレは覚えているから。


今でもずっと、愛しいと思う気持ちには変わりがないから、どれだけ離れていようが会えなかろうが、この思いには変わりがないから、オレが恭弥のことを忘れるなんて事は、これからもきっと有り得ない。

けれど……。



オレは、時々、気付いてしまう事がある。





『 さ み し い の ?』





……ああ、さみしいんだ。



無くしたわけじゃない、離れているだけで、会えないだけで、失ったわけでもないのに。

なのに、会えない。




お前に会えない。




時々、酷くさみしいんだ、ただその事だけが。




あの日、問い掛けられて気付いた冷たく静かなさみしさだけがオレの隣にいつも居て、それに気付く度に。

黒い目を見ずに呼ぶ名前は、未だこんなにも愛しいのに。







ここにはいない、お前だけが、いまも。






>>fin.



 
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