優しい手が傷を開く
written by Miyabi KAWAMURA
2007/07/24
開けた扉の向こう側は、薄暗かった。
部屋の広さは、雲雀の私室よりも広い。
柔らかな絨毯の敷かれた床に直置きされた大きな花瓶には、背の高い花が生けられている。形良く花開いた花弁の色は美しいのだろうが、この薄暗い中では、雲雀の目にそれが届くことはなかった。
屋敷の主の立場上、ここに立ち入ることが許された人間は限られている。雲雀はその数少ない内の一人だ。慣れた足取りで歩を進めると、続き部屋の扉の前に立つ。……扉は薄く開いていて、その中もやはり明かりは落とされていた。
溜息の後、雲雀はドアに手を掛けた。古いとはいえ、手入れのよくされた蝶番は軋む音ひとつ立てない。巡らせた視線の先、部屋の中の一番大きな家具――キングサイズのベッドの上に人影を見つけると、雲雀は彼らしくない溜息を、もう一度零した。
近づいていって改めて見ると、眠っている相手は、黒い色のスーツを着たままだった。かろうじてネクタイだけは緩められているが、寝心地が良いとはお世辞にも言えない格好をしている。普段、無造作にでも整えられている幾分長めの髪も、枕の上で好き勝手に乱れていた。
薄暗い部屋の中でも、淡くひかりを返す髪。
たった今、横を通り過ぎてきたばかりの花瓶に在った花の色が何色であったかすら覚えていないというのに。……なのにこの髪が、暗い部屋の中ではなく、太陽の光の下では蜂蜜みたいな深い金色に見えることを、雲雀の目と脳は、とうに記憶してしまっている。
「……恭弥……?」
人の気配を感じたのか、薄らと目を開けたディーノが呟いた。
雲雀に向けられた鳶色の目は薄赤く充血し、声には普段の艶が無い。気管支の辺りもやられているのか、呼吸にも掠れた音が混ざっている。
雲雀は、呼びかけに答える代わりにベッドに腰を下ろし、手を伸ばした。
「伝染るかもしんねーから、触んな……」
「そう思うなら黙ってて」
身体を動かすのも辛いのか、ディーノはそう言うものの、近付く手を避けようとしない。
「熱い」
ディーノの額に届いた指先から感じる、尋常でない熱。
無表情な声のまま呟いた雲雀は、一旦指を引くと、掌を押しあてた。汗で張り付く髪を払い、直接額を掌で覆うと、ディーノが緩い吐息を漏らす。
「お前の手、冷たくて気持ちいい」
「……あなたの熱が高いだけだよ」
本来の平熱は、雲雀の方がディーノより高い。
いつも「恭弥は”子供体温”だから」などと言って揶揄するくせに、今は完全に二人の立場が逆転していた。
「解熱剤は?」
「さっき飲んだ。……けど、全然効かねぇ……」
あのヤブ医者、と毒づいているくせに、けれどディーノの声に否定の感情は微塵も含まれていない。
キャバッローネ邸に出入りしているのは、もう何代にも渡ってこの町で医療に従事している家出身の老医師なのだ。ディーノを幼い頃から主治医として診ている彼は、効きと同時に習慣性も強い薬を使う安易な方法を敢えて選ばず、患者本人の抵抗力を活かす治療方法を採ったのだろう。
それは、今だ若く体力もあるキャバッローネ十代目の……というより、ディーノという一個人の身体のことを、大事に考えている証のように雲雀には思えた。
「…っ、……頭痛ぇ」
独り言じみた呟きを零して、鳶色の目が閉じられる。
着替えさせた方が、とも思ったが、元々「ひとの面倒を見る」習慣の無い雲雀だ。馴れない自分がするよりも、屋敷の誰かを呼んでさせた方がディーノも楽だろうと考え、その代わりにゆっくりと口を開いた。
「……しばらく寝てれば、治るよ」
額に置いていた手を、静かに引く。
指先が離れる間際、相手にそうと気付かれない程度の僅かさで、金色の髪に触れた。しかし、まるでそれに合わせたかの様に名前を呼ばれ、雲雀は思わず右手をきつく握り締めた。
「恭弥、少しだけ待て」
雲雀の見ている前で、ディーノが身じろいだ。
腕を突き、無理矢理身体を起こすと隣にいる雲雀を見遣る。
「……ごめんな」
謝罪の言葉の理由が解らず聞き返そうとした刹那、掴まれた腕を引き寄せられて、雲雀の身体は無防備に倒れ込んでしまった。
「! ……ッ」
どん、と肩がディーノのそれに当たり、咄嗟に相手の身体に手を突き体勢を直そうとするが、それより早く背に回された腕で抱き締められる。
雲雀の頬が、ディーノのシャツの胸元に擦れた。普段から慣れ知っている筈のトワレの匂いが甘く重く薫り、雲雀の肺の奥深くを満たす。
布越しに伝わる高い体温と、心拍の音。
自分の髪を揺らす暖かいものがディーノの吐息だと気付いた瞬間、雲雀は何かを堪える様に、ぎゅっと目を閉じた。
息が詰まり、肌が粟立つ。
こんな近くに、否、近くにどころか抱き締められ、ディーノの体温を感じさせられる事は、今の雲雀にとっては拷問にも等しいのだ。……しかし当然ディーノがそんな事を知る由も無く。そして又、雲雀の抱えるこの思いは相手に微塵も知られる訳に、いかなかった。
身体を固くしたままの雲雀の異常に、普段のディーノなら間違いなく気付けただろう。が、熱で朦朧としている今は無理なのか、ディーノは雲雀の髪に唇を寄せた。
小柄で薄い雲雀の身体を、ディーノの腕は抱き締めて余る。
届いた指先で黒い髪を柔らかく撫ぜ、覗いた耳朶に触れる。
ディーノからしてみれば、養い子を構う行為の延長なのかもしれないが、雲雀からすれば、その無作為さは逆に辛いばかりだ。いやだ、と身じろいでも、それを宥めようと抱き締める腕の力は強くなるだけで、完全な(雲雀にとっての)悪循環に陥ってしまう。……しかし、その時。
「お前との、約束破った。ごめんな」
約束、という単語を聞き取り、雲雀の肩が小さく揺れた。
ディーノと雲雀の間には、暗黙の「約束」が、あった。
それは、とても古いもの……ディーノが雲雀を養子として引き取った最初の頃に、結ばれたものだ。
雲雀を屋敷に迎えた当初、ディーノは家を空けたがらなかった。
年若いとはいえ、マフィアのボスであり且つ表向きは一財閥の長であるディーノだ。予定をいくら調整したところで、どうしても避けられない長期外出の機会は、当時から幾らでもあった。……しかしそれでも、日本から連れて来たばかりの、自分以外構ってやる相手もそういない子供を一人残して屋敷を空けることは、彼にとって大いに気に病むところだったのだろう。
ある日ディーノは雲雀を呼ぶと、真面目な顔をして告げたのだ。
『長い時間出掛けた後は、帰ったら一番最初にお前に会いに来る』
『勝手にいなくなったりしないし、約束は絶対に守る』
『……ずっと一緒にいてやれなくて、ごめんな』
幼い子供にも意味が通じるように、日本語でゆっくりとそう言われたときのことは、雲雀の記憶の中でも今だ鮮明だった。
「……別に、気にしてない」
ディーノが繰り返す謝罪の理由に思い至って、雲雀はひとつ息を零した。
今日、スクールから戻り自室にいた雲雀の元を訪れたのは、ディーノ本人ではなく、彼の腹心の部下であるロマーリオだった。
ディーノと共に日本へ行っていたという彼と顔を合わせるのは一ヶ月ぶりで、しかしわざわざ顔を見せに来る理由が解らない。
訝しくは思ったものの、用が無いなら出て行けと言おうとした雲雀はしかし、「ボスを看てやってくれ」と逆に告げられたのだ。
「別に、あなたが来るのを待ってた訳じゃない」
「……ああ」
言葉を紡ぐ度に、ずきり、と心臓が痛む。
そんな事は錯覚に決まっていたが、雲雀はきつく、眉を顰めた。
「あなたが刺されたとか、撃たれたとか。……そういう下らない事を、僕が考えるとでも思った?」
「……思ってねぇよ」
雲雀の声も、そして応えるディーノの声も。
殆ど掠れ消える様な小さなもので、しかし酷く近くにいる所為で、互いの言葉はかろうじて音のまま鼓膜に届く。
「……でも、恭弥に心配かけたことに、代わりは無いだろ」
ごめん。
深く、大きく息をつく様に。
ディーノはもう一度そう告げると、雲雀の背を宥めるように緩く撫でた。
その仕草はまるで小さな子供を……「約束」を交わしたときの雲雀を腕の中に抱いているかの様な仕草で、あくまでもどこまでも優しい。けれど、その優しい筈の手は、今の雲雀を、酷く傷付ける。
頬に触れる熱も、背に回された腕も、髪を揺らす吐息も。
その何もかもが痛くて、けれど雲雀は、動くことが出来なかった。
>>fin.
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