半夏生
−夏のはじまりは甘く、甘く−
written by Miyabi KAWAMURA
2007/06/29
梅雨の合間の晴れの日は、前日の曇天との落差のせいか実際の温度以上に暑く感じられる。
ただでさえ、来月には夏休みが始まるのだ。
生徒達の気が緩みがちな季節に入り、並盛中でも風紀委員による取り締まりが一層強化される時期に差し掛かっていた。……が、雲雀がちょうど校舎から出ようとしたそのとき、ディーノが訪ねてきたのである。
数分間の、決して友好的且つ穏やかには見えない会話の後。
「ま、とにかく、行こーぜ?」
最終的に、その一言で雲雀を連れ出すことが出来るのは、あの人の特技なのかもしれない、と。……近い将来、ボンゴレ十代目となる少年が、自分の兄弟子と先輩である風紀委員長の姿を遠目に見ながら、隣に立つ未来の右腕にそう声を掛けたことなど、勿論当人達は知る由も無かった。
車が止まったのは、山間に佇む旅館の前だった。
並盛から数十キロしか離れていないここは、関東地方でも有数の景勝地として知られている。避暑には僅かに早い時期の所為か、辺りは静寂に包まれていたが、おそらく元より人が賑々しく訪れる場所ではないのだろう。門構えに庭の景色、そして古めかしく荘厳な日本家屋の佇まいのどこを見ても、ディーノの選んだこの宿が、特別な場所……いわゆる隠れ屋のような場所であることは容易に想像出来た。
庭園を臨む広い部屋に雲雀を残してディーノが出て行ってから、既に一刻が過ぎている。
いつも上手く時間を作っては日本を訪れる彼だが、だからといって滞在しているその間を、全て余暇に費やせている訳ではない。表のものか裏のものかは知れないが、雲雀と二人きりでいる時以外は、常に部下や本国と連絡を取り、何かしらの仕事をこなしているのだ。
基本的に雲雀は他人と過ごすより、ひとりでいる事の方を好んでいるから、自分を連れ出した張本人が一時姿を見せなかったからといって、文句を言ったことはない。むしろディーノからしてみれば、その一言こそを雲雀の口から引き出したいのかもしれないが、如何せん、雲雀相手にそれを望むのは難しいといったところか。
ゆっくりと傾き始めた陽が、障子を透かす。
畳替えしたばかりなのか、真新しいイグサの香りが部屋には香っていて、それにつられる様に隣の間を見遣ると、雲雀はそちらへ足を向けた。
和紙に撓められた西日が部屋の隅までを柔らかく照らし、暖色に染め上げている。が、空調が効いているため、暑さはさほど感じない。
畳にぺたりと座った雲雀の目に、床の間に飾られた花が映った。
花そのものより、葉の風情を楽しむ類の植物なのだろう。
薄らと水気を含んだ葉の先に溜まった雫の様は涼しげで、今にも垂れ落ちそうなそれに指を伸ばした瞬間、背後から名前を呼ばれて雲雀は振り返った。
「ここにいたのか」
悪い、待たせた。
そう言いながら部屋に入ってきた相手が、自分の方を見るなり彼の国の言葉で感嘆詞じみた響きの言葉を呟いたので、雲雀は首を傾げた。
何か彼の気を引くようなものでもあるだろうか、と思って考えるが、いくら格式が高いとはいえ、此処は飾り気の無いただの和室だ。年若いマフィアのボスが好む類のものがあるとは思えず訝しげに相手を見遣ると、雲雀の抱いた疑問に気付いたのか、隣に座ったディーノは、影だよ、と畳と壁を指差した。
「すげえな。影絵みたいだ」
言われて、雲雀もようやく合点がいった。
欄間から差し込む光が、畳と、そして壁に幾何学模様に似た影を作り出していたのだ。
「日本に来るとホテルしか使わねーけど、たまにはこういうのも良いな」
微笑って満足げに言ったディーノは、抱えていたものを雲雀に差し出した。
「それは?」
「お前の着替え。制服のままじゃ暑いだろ」
ほら、と広げて見せられたそれは、麻の浴衣だ。
深い藍色に、蝶の柄が白く染め抜かれたそれは確かに着心地が良さそうではあるが、だからといって今すぐ着替える気にもなれず、雲雀はふい、と視線を外すと、先刻まで見ていた花に目を戻した。
緑色をした葉の中の一枚だけが、まるで色を抜いたように半分、白く染まっている。
一枚の葉の上で、くっきりと分かれた、白と緑。
「恭弥、その花……っていうか、草、好きなのか?」
「別に」
あまり長く見ていたせいだろうか。ディーノにそう尋ねられて、しかし雲雀は首を振った。
「前に見たことがあるだけ。半夏生っていう名前しか知らない」
「ふうん?」
ハンゲショウ、と、耳慣れない日本語を鸚鵡返しにしたディーノに頷くと、雲雀は先刻そうしかけていたのと同じ様に指を伸ばして、葉に触れた。
夏のはじまりのその頃に、この葉は色を変え始める。
一枚の葉の上で、ゆっくりと緑色が白色に侵食されていくうちに時間が過ぎて、そして夏の盛りを迎える頃には、一度真っ白に染まった葉は、何故か再び緑色に染め戻っていくのだ。
夏のはじめ、そして、夏のさなか。
ひと夏の内に姿を変えるこの草は、季節を告げるものとして古くから知られている。
指先に触れる葉の手触りは、白いところも、緑色のところも変わりない。けれど、日常ではあまり触れる機会の少ない緑の感触は存外指に優しくて、雲雀はしばらくの間、葉の上で指を遊ばせていた。……しかし。
葉先についた雫で指が濡れた、と思ったそのとき、不意にディーノに手首を掴まれた。
抗う間もなく組み伏せられて真上から見下ろされ、雲雀はひとつ、息をついた。
「……それで、何?」
「なに、じゃねぇだろ。……オレが隣にいるのに、他の物ばっか構ってる恭弥が悪い」
勝手な言い草だということは、ディーノ自身も十分承知しているのだろう。
悪戯っぽく苦笑しながらそう囁いて、額に触れた唇が、そのまま雲雀の頬を辿る。掴まれた手首も程なく離され、自由になったそれの置き場に一瞬迷った後、雲雀はディーノの首に腕を回した。するとそれに応えるように、舌先で唇を擽られる。雲雀が緩く歯列を開くと、ディーノの舌が滑り込み、口腔を撫でる様に愛撫した。
くちゅ、と鳴った水音と同時に、雲雀の身体から薄らと汗を帯びたシャツが剥ぎ取られていく。
「……ッ……」
思わず身じろいだ雲雀の腕に纏わりついているシャツが、畳に擦れて、ざり、と鳴った。それに気付いたディーノが、何を思ったのか一瞬愛撫の手を止める。
「恭弥……、ちょっと待て」
「ん……、ぁ」
ぐ、と腰に回された腕で体を持ち上げられ、雲雀の背がしなやかに反る。
「これで、背中痛くないだろ?」
再び降ろされた雲雀の背の下には、先刻見せられた藍色の浴衣が広げられていた。
この色、恭弥にすげー似合う。
組み伏せた肌の白い色と、藍色のコントラストが気に入ったのか、ディーノは愉しそうにそう言うと、雲雀の髪を柔らかく撫でた。
「このまま抱きたい」
独り言みたいにそう言いながらも、雲雀の顎を捕らえる指と、そして重なった視線は拒絶の言葉を赦すつもりが無いことを伝えていて、ディーノのその過分な我儘を受けた雲雀は、ゆっくりと口を開いた。
「……僕の着替えが無くなるんだけど」
「分かった。オレの服貸してやるよ」
だから、いい? と、微笑混じりにそう聞かれ、雲雀は答える代わりに相手の首に回した腕に力を篭めた。……拒む理由など、雲雀の中にも最初から無いのだ。
夏のはじめ、夏のさなか、そして、夏のおわりまで。
緑の葉が白く変わり、そして再び色付くそのときまで、ずっと共にいることなど出来る訳がなくて、でも、それでも。
……せめて、この夏のはじまりだけは。
>>fin.
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