雪色の恋歌
written by Miyabi KAWAMURA
2008/0114






 「狙われてるの?」


現れるなり、そう問うてきた雲雀に向かって、ディーノは逆に問い返した。

「どうしてそう思うんだ」

表情を変えず、口元に運びかけていたカップに、そのまま唇を付ける。
イタリアの、生まれ育った屋敷で飲むそれとは違う風味だが、並盛で飲むコーヒーも、それなりに美味い。指輪争奪戦の際に土地ごと買い上げた廃病院の中の一室を、ディーノは日本滞在中の執務室として、改装させていた。……机と椅子、そしてソファを気に入りのものに変えたとき、半分冗談のつもりで、「最優先事項は美味いコーヒー探しだ」と命じたのだが、それを受けた若手の部下(とはいっても、ディーノより実際年齢は年上なのだが)は、本気でその任務に取り組んだらしい。

 芳醇な香りがする濃褐色の液体に、ミルクを多めに注いだものを、ディーノは雲雀の前に置いた。「飲め」と手渡すと拒むくせに、黙って置いておけば、雲雀は意外と素直にカップを手に取る。部屋に現れたとき、雲雀の身体からは、外の冷たい空気の匂いがした。ただでさえ小柄で細い、白い肌をした教え子は、自分の身体に無頓着だ。今も、冷え切っているらしい指先は、青くなっている。それを、早く暖めてやりたかった。



「あなたの周りの黒服の数と、動きを見れば解る」

さらりと答えた教え子の、相変わらずな優秀さに少し笑って、ディーノは頷いた。

「正解。――イタリアから、連れて来ちまった。悪いな」

並盛の秩序を、何よりも大切にしている雲雀だ。
異分子の、しかも暗殺者などという危険極まりない異分子の侵入に気分を害しているかもしれないと思って告げた謝罪にしかし、返されたのは、意外な言葉だった。


「楽しみだね」


語尾に滲む、雲雀が機嫌の良いときに浮かべる、好戦的な笑みの気配。

「……何が?」

雲雀からの答えを予想しつつも、ディーノは聞いた。
鳶色の視界の中で、雲雀の指が、カップを持ち上げていく。少しだけ、血色の戻った指先。けれど爪はまだ青い。きっとその手を掌に包んでやれば、氷みたいに冷たいのだろう。

「あなたのことを殺しに来た奴等なら、少しは楽しめるかもしれない」


三日前に雪が降ったんだ、と、雲雀が続けた。


「それ以来、草食動物の群れが大人しくて退屈してた。獲物が来たら、全部、僕が貰うよ」

物騒な宣言をしてみせた口元に、冷たい指先がカップを運ぶ。
白い陶器に触れる、ふっくらとした唇。温かなカフェラテで濡れたそこを覗かせた赤い舌先で舐める様は、どことなく、獲物を狙う猫科の動物の仕草を思わせる。

「それは構わねーけど、な」

苦笑すると、ディーノは教え子の名前を呼んだ。
黒い目が向けられて、何、と視線だけで返される。――楽しいと、そう言っていた通り、雲雀の目には既に、近い未来に起きるかもしれない戦いへの、高揚の彩が浮かんでいる。その彩は、既にディーノも良く見知ったものだった。

並盛中の応接室にいる雲雀を訪れると、彼は必ず決まって、ディーノに戦いをねだる。

ボンゴレの雲の守護者を、ヴァリアーと互角に、否それ以上に戦えるレベルにまで鍛えろと依頼された件は、とっくに終わっている。本当なら、ディーノと雲雀の間に、確たる繋がりはもう残っていない。だからこれはディーノの、極めて私的な楽しみの類に入るのだ。――気位が高く生意気なところが目立つ「元」教え子の、「僕と戦え」という要求を、叶えてやることは。

戦っているときの雲雀の黒い目には、ディーノの色素の薄い鳶色の目には無い、深い艶やかな光が浮かぶ。その目と対峙するとき、雲雀の目が自分だけを追い、映しているときに感じる、名付け難い感情の正体。それが何なのかは未だディーノ自身にも解らず、けれど一つ確かなことは、今、雲雀が自分以外の――姿を現すか否かも解らない暗殺者なぞに気を取られていることが、どうも面白くないということ。ただ、それだけだった。





「なあ、オレは? 狙われてるオレの心配は、してくんねーの?」
「……あなたの?」


我ながら下らない質問だと思いつつディーノが聞くと、少し黙った雲雀は、何を思ったのかカップを机に戻した。そして身体を預けていたソファから立ち上がり、窓から遠く離れた壁際に置かれたベッドに腰を降ろしているディーノの目の前にやって来る。


ちゃき、と金属の擦れる音がして、次の瞬間、雲雀の手の内には銀色の愛器が握られていた。



「囮は大人しく、檻の中にいてくれればいいよ」



突きつけられた、トンファーの切っ先。


「囮?」
「そう。僕の目の届くところに、いてくれさえすればね」
「……簡単に言ってくれるな」

咽喉笛に押し当てられた凶器の感触もそのままに、ディーノは動いた。
ゆっくりと持ち上げた手で、雲雀の左右の手首をそれぞれ、捕らえる。

掌の内に感じる雲雀の手首の、華奢な細さ。
ディーノの中指と親指の先は、相手の手首を一周した先でぶつかり、戒めは完全になっている。しかし雲雀は、何故か拒む様子を見せない。囮、と自ら称した相手に身体の自由を一部支配されてしまったというのに、だ。

ただ黙って自分を見下ろしている黒い目の中には、動揺も焦りも浮かんではいない。
この、矛盾。こと戦いに関しては、怖いほどの才を持っているくせに、雲雀は時折致命的なまでに無防備なのだ。ディーノから見て、それは不安要素であると同時に、しかし不思議と惹かれる部分でもあった。


鳶色と、黒の視線を交差させたまま、しかしディーノの意識は己の手に向かっていた。

捕まえた、触れ合う皮膚から伝わる、冷え切った体温。
そしてそれと相反する、真正面から向けられた黒い目の中に浮かぶ熱。


僅かに目を眇めると、自分の指に篭りそうになった力を、意識してディーノは緩めた。……意識しなければ、無意識の望みに負ける。そう警鐘を鳴らすものが自分の中にあることを、ディーノはとっくに、自覚していた。






「お前、このまま待つつもりか?」


暫しの沈黙を破ったのは、ディーノのひとことだった。


「敵が来るまで、オレと此処で、夜まで。――朝まで?」


言いながら、掴んでいた手首を、そっと解放する。
離れていく体温。……それを掴み、もう一度引き寄せてしまおうかと思ってしまう位には、自分が雲雀を気に入っているということを、ディーノは知っている。しかしそれは、相手に悟られてはならないものだった。



「いつまででも」



なのに、凍りつきそうに冷たい指をしたこの教え子は、簡単に言うのだ。



「もし奴等が来なくても、あなたが僕と戦えばいい。それで構わないよ」



外見から想像されるより少し低い、けれどやはりどこか柔らかな甘さの残る子供の声で、簡単に。……ディーノは、少し笑った。笑うしかないな、というのが、正直なところだった。


傍にいて。朝まで傍にいて。
自分の前から姿を消さないで、などと。


それこそイタリア歌劇の一節にでもなりそうな意味の言葉を簡単に言ってのける雲雀の、ひどく物騒で純粋な執着は、ディーノよりむしろ雲雀本人を、知らず追い詰めることになってしまうだけなのに。……けれど多分おそらく、雲雀自身が自らそれに気付くことはないだろう。
例えば、誰かが。
誰かが雲雀を無理にこじ開け、気付かせてやろうとしない限りは。



「雪の音がする」



そのとき不意に、雲雀が呟いた。
ディーノに据えられていた黒い目が離れ、振り向いた先、ガラス窓に向けられる。



それを少し惜しいと思いながら、けれど与えられた猶予の時間に、ディーノが心の内で幾度目かの吐息を漏らしたことにもおそらく、雲雀は気付かないだろう。気付く必要は、彼には無いのだ。


冷たく白い雪を降らせる真冬の雲。
空の、手の届きそうなところに浮かんでいるようでいて、けれど決して届かない雲は、今の雲雀に少し似ているように、ディーノは思った。





>>fin.


 
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