ねえ、それは禁忌の言葉。
written by Miyabi KAWAMURA
2008/0201
ふわりと漂う甘いの匂いの源に、銀色のフォークが刺さる。
「ソファの上」
冷静な雲雀の声に、ディーノは顔を上げた。
頬と唇の端についた生クリームを指で拭って舐めとり、それから雲雀の視線を追った先で、何故かソファの上にまで零れていた白くて甘いものを、ごしごしと袖で拭き取る。
「……それで拭いたつもり?」
「んん」
こくりと頷いたディーノの口腔には、どうやらまだ食べかけのひとくちが残っているらしい。マフィアのボスという物騒極まりない立場にいるくせに、根本的に育ちの良いディーノは、こういうところはきちんとしている。風紀委員長たる雲雀からして、それは評価に値する部分なのだが、どうせなら、目の前で繰り広げられる破滅的な食べ零しもどうにかならないのだろうか、と思わざるを得なかった。
「それ以上ここを汚すつもりなら、外の黒服を呼ぶよ」
「! んん!」
それは駄目だと言いたげに首を振ったディーノは、そこでようやく口を開いた。
「何言ってんだよ。久しぶりに会えたのに、それじゃ落ち着いて話も出来ねえだろ」
「別に、あなたと話すことなんてないよ」
「オレはある」
「……ふぅん」
そう、と気の無い返事をして、雲雀は手に取った風紀委員の活動記録簿を開いた。……途端、黒い表紙の端についた生クリームを発見して、眉を顰める。幸い、ほんの微量だったそれを拭きとって、今開いたばかりのページを閉じて机の上に置くと、ソファの向かいに座っている相手と、そして机の上のケーキとを睨みつける。
「いい加減に片付けてくれない、それ」
こぶりの、けれど綺麗にイチゴが飾り付けられたケーキを見遣る雲雀の目には、彼が嫌悪している草食動物の群れを見る時と同じ剣呑とした光が浮かんでいた。
「部屋が甘ったるくなる」
「そりゃ、お前の気のせいだろ」
「……殺されたいの」
「怒るなよ」
雲雀の反応に苦笑すると、ディーノは箱に入ったままのケーキを、雲雀の近くに寄せた。
「何」
「恭弥も、いっこ食えよ」
美味いぜ、といって微笑って、ディーノは言葉を続けた。
「恭弥も知ってるだろ? ハルが、誕生日にって作って持ってきてくれたんだぜ」
「誕生日? 誰の」
「だから、オレの」
来週の月曜と言われて、雲雀は見るともなしに、壁に掛けられたカレンダーを見遣った。
――2月4日。明々後日、だ。
「あなた、そのときまだ日本にいるの?」
雲雀の言葉に、ディーノはいや、と答えた。
「明後日には帰国するから、いないな」
「そう」
「……もしかして、何かしてくれんのか、お前が?」
「そうだね。誕生祝いに、咬み殺してあげようかと思ったところだよ」
「……いつもそんなんばっかだな、恭弥は」
まあお前らしいけど、と続けると、ディーノは箱から取り出したケーキを、雲雀の前に置いた。
「だから何。いらない」
「なんでだよ。お前、甘いもん嫌いじゃねーだろ?」
十日間の修行の旅の間、泊まっていたホテルで出されたデザートの類を雲雀が残さずにいたことを、ディーノは見て知っている。……が、なのに今日の雲雀は、ケーキを見遣るだけで手をつけようとしない。――中学生の、例えば女子なら……このケーキを作ったハルや、未来のボンゴレ十代目の片思い相手である京子などなら、甘いものを摂りたがらない理由も解るが、まさか雲雀が。ダイエットなぞする筈もない。
「――味が解らないから、いらない」
詮索される煩わしさを思ってか、雲雀は至極あっさりと答えを晒した。
「味? ……また風邪ひいたのか」
「悪い?」
単純極まりない原因に笑ったディーノに揶揄されたと思ったのか、雲雀は、ぷい、と横を向いてしまった。その横顔を改めて見れば、確かに、眦が少し潤んでいて赤い。大人びた教え子の、けれど時折垣間見える幼さの残る仕草に鳶色の目を甘く眇めると、ディーノは何を思ったか、手にしたフォークでイチゴをひとつ、刺した。
「だったら、恭弥は、コレな」
差し出された赤い甘い香りのする果実に、雲雀の黒い目が据えられる。
「いらない」
「我儘言うな。どうせ、ちゃんと飯も食ってないんだろ」
程よい酸味と、そして甘さのある栄養価の高い果物。
自分のしたくないことは絶対にしない性質の雲雀だが、納得したことに関してはそれなりに譲歩もするのだ。少しばかりの無言の後、伸ばした指でイチゴをフォークから引き抜くと、そのまま口に含んだ。
ふっくらとした唇の狭間の赤い果実が、白い歯列に挟まれる。
細い顎が動き、咀嚼された果肉から甘い芳香が舞って、それはディーノにまで届いた。
「……美味かったろ?」
薄らと果汁の滲んだ教え子の唇の端に指で触れてそこを拭うと、ディーノは微笑った。
「ちゃんと全部食えるまで、ここにいてやるから」
だからもうひとつな、と言って雲雀の髪を撫ぜると、雲雀が嫌そうに首を振った。
「僕を子供扱いする気? 冗談じゃない」
「子供じゃねえよ」
「じゃあ何」
黒い目で真正面からきつく睨まれ、ディーノはゆっくりと口を開いた。
「お前は、オレの、大事な教え子だからな」
言いながら、触れた黒い髪に指を絡める。
「だから他の誰よりも――何よりも、大事だし、心配なんだ」
心の底から大切で堪らないものを、見るような。
愛しくて堪らないものを見るような目で見詰められ、雲雀の息が知らず、止まる。
目が、何故か、離せなかった。
(……っ……)
ひとつ心臓が鳴って、ディーノの指先が触れている髪に意識が集中する。
表現出来ない、正体の知れない息苦しさに雲雀が瞼を震わせた瞬間、ディーノが、深く吐息を漏らして、苦笑した。
「……何よりも、は、ヤバいな」
ボスがそんなじゃ、ファミリーの皆に殺されちまうと、冗談めかした軽口を零して、ディーノは雲雀から離れた。
「とにかく、早く、治せよ」
「……」
「見舞いには、来てやれねーから、な」
「……そんなの、いらない」
互いに何故か目を合わせることが出来ず、少しぎこちなく、けれど何か――空気が静電気を孕んでいるような、そんな感覚の中。無意識に伸ばした指で相変わらず甘い匂いを撒き散らしている物体の上から赤い果実をひとつ取り上げると、雲雀はその先端を、齧った。
赤い、甘い、芳香。
けれど何故か。
先刻確かに感じることが出来たその味を、雲雀の舌は何故か、感じることが出来なかった。
>>fin.
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