花を追い、花に惑う
written by Miyabi KAWAMURA
2008/0322







 薄紅色の筈のその花は、夜の薄明かりの中では何故か濃紅色に透けて見える。


花開き、咲き誇るばかりのそれは、風に揺れても未だ花弁を散らそうとはしない。ざわざわと鳴る木立。夜風までが、花の色に染まっていくような錯覚。……感覚が、狂う。惑わされる。冷たさとぬるさが混ざり合った、この季節独特の空気。視界を塞ぐ幾千幾万の、花。




 恭弥と話したのは、数日前のことだった。


 お互いの顔を見ないままの、電話越しの会話。
あのとき、彼の声の後ろに風の音はしていたか? 車の音は。ひとの気配は?
記憶のひとつひとつを手繰り寄せ、頭の中とそして耳に刻み込まれている恭弥の姿を、声を思い出しながら探っていく。会いたい。どうしても今すぐに、抱き締めたかった。






 意図していた訳では決してなく、けれど何故か毎年、恭弥と出会ってから毎年、桜の花が開く季節に、オレは日本を訪れていた。

綺麗な薄紅色の花は、しかし以前、恭弥のことを酷く傷付けた凶器でもあるのだ、と。
オレに知らせたのは彼本人ではなく、けれど恭弥は、自分の家庭教師を名乗る男がそのことを知っていると気付いているに違いなかった。だからおそらく彼は、あんなにも嫌がったのだ。この季節に現れて、隣で桜を見ようとする、見せようとする家庭教師の存在を。


病は完治している筈なのに。
しかし厭わしい記憶は、彼をじわりと、さいなみ続けているようだった。


薄く汗ばみ、色付いていく肌。細かく震える指先と肩。
眉を顰め、仇を睨みつけるようにして、けれどどこか陶然としたような艶を浮かべて頭上を覆う薄紅を見詰める、黒い瞳。


他の何よりも迷いが無く、望む先だけを見据えている黒い瞳が、そのときだけどうしようもなく乱れて揺らぐ。――消して、やりたかった。その翳りも痛みも、迷いも全部消してやりたくて、隣に立つ細い身体を抱き締めたのは二度目の春で、それ以降、僅かながらに意味を変えた互いにとっての相手の存在は、今やこんなにも大きなものに、なってしまっている。






 お前の声を聞けただけでも良かった、と、言ったのはオレだ。

毎年訪れるこの季節に、しかし今年だけはどうしても会う事の出来そうにない相手から、ふいに掛けられてきた電話。世界のどこを飛び回っているのか、捕まえ抱き締めることが難しくなってしまった彼が、けれどオレに向けて寄越した、気紛れな接触。


――ああ、そういえばそんな時期か、と。


耳ざわりの良い彼の声を聞きながら、今年も「その季節」が訪れたことに気付かされた。


 並盛を離れた恭弥、そしてそれにつれて、自然と並盛を……日本を訪れる回数を減らした自分。思い出せば鮮やかな、けれど思い出す機会の減っていた薄紅の花がそろそろ咲く頃か、と告げると、相手は少し黙って、そうだね、と呟いた。



「なあ。お前、今どこにいるんだ?」



答えが返ることは期待せず、しかし問うた自分の声の酷い甘さ。


「そんなこと、聞いてどうするの」


……意外にも返された答えは、予想通りの素っ気無さで、けれど。



「どうもしねえよ。でも」
「でも?」
「……お前のこと、抱き締めたい。今すぐ」



僅かに機械音のノイズが走る中、けれどオレは、叶いようも無い我儘を、伝えた。








 風が吹き、宵闇を攪拌する。
呼吸につれ、肺を満たす桜の気配の染み込んだ空気。


あのとき、告げてやった我儘に黙り込んだ恭弥に向けて、オレは笑った。
冗談だ、と言い置いて、久しぶりに声が聞けただけでも十分だと。相手を追い詰めずに済むような、物分りの良さを装った。なのに、恭弥は。





「――恭弥……ッ!!!」





咽喉が裂けるみたいな、こんな大声を出すのはいつ以来だ。
否、もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。

妙に冷静な思考を頭の片隅に置いたまま、けれどもう一度名前を呼ぶ。
その声に被るように吹く、一際に強い風。漆黒の枝が揺れ、薄紅の花が震え鳴る音がオレを押し包もうとするが、そんなもの。




『……あなたは、それで十分なの』


こんなもので、満足出来るの。
足りない。僕は、こんなことじゃ足りない。
今聞こえてる声だって、あなたの、本物の声じゃない。僕は……、





「恭弥!!」





『僕は、あなたの、声が欲しい』





桜色の闇を乱す風、けれどオレは、欲しくて、今すぐ抱き締めたくてたまらない相手の名前を叫んだ。



一方的に始まって、そして途切れた会話。
それを追う様にして訪れた懐かしい町では、約束の花が既に花開いていた。




お前は、今年も、間違いなく此処にいる。
疑う余地を差し挟む隙すら無い確信が、オレにはある。
薄紅の花の姿を借りた悪い夢も何もかも壊して、お前が、オレのことしか考えられなくなる位に、抱き締めたい。今すぐに。



声が欲しい?
そんなものじゃ足りないのは、お前の方だろう。



だって、オレも、お前が欲しい。ずっと、お前だけが欲しかった。





「恭弥!!」





――そうだ、今まで。






お前の名前を呼ぶたびに、ずっと、いつも。

 

 

>>終


 



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