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パンドラ
2008/0429
written by Miyabi KAWAMURA





 どれだけの回数を重ねても、狩りつくすことが出来ない位に周囲に溢れている草食動物の群れ。

数に頼んで(取るに足らない弱い生き物が集まったところで、本当は大した問題ではないのだけれど)ざわざわと視界の中を動き回られることへの不快感と、そして並盛の秩序を乱されることへの苛立ち。けれどトンファーを振るえば、それらは少しだけましなものになる。僕はそのことに随分と以前から気付いていたから、だからずっと、狩りという行為を続けてきた。


毎日のその繰り返しは、僕にとって少しばかり退屈ではあったけれど、それなりに満足出来るものである筈だった。……彼に出会うまでは。








 裏路地には、獲物が溜まりやすい。


降り続いていた雨が上がったのは、今朝早くだった。
それまでどこかに潜んでいた獲物たちは案の定、雨の合間を縫うように無防備に群れ、騒いでいた。


目に留まった順に片付けていくことにしている獲物の顔など、いちいち確かめるつもりは僕にない。


トンファーを一振りするごとに、鈍い音が響いて足元で水音が立つ。ばしゃ、ばしゃ、と、深く澱んだ水溜りに沈みこんでいく獲物の身体。いち、に、さん、と、心の中で自分が繰り出した攻撃の数を数える余裕すら僕にはあって、けれどそれは決して、有難いこととは言えなかった。

……余裕? 違う。
これはそんなものじゃない。単に、戦うことに集中出来ていないだけだ。
どうしたらこの感覚は消えるだろうか。例えばもっと狩場を広げて、もっと一度に沢山の群れを潰せば、少しでも気が晴れるのだろうか。

今までそれなりに愉しかった筈のことが、最近はあまり愉しく感じられなくなっていることに、僕は自分でも気付いていた。



 「……つまらないな」



特別な手ごたえがある訳でも、意味がある訳でもない戦いは逆に自分を疲労させるだけだということを、幸いなことに僕は知っている。

ぱらぱら、と、再び降り出していた雨。

耳に届いた雑音に振り返れば、狩り残していた最後の獲物が、何か声を上げながらこちらに向かってくるところだった。――ちょうどいい。これを仕留めたら、今日はもう終わりにしよう。足元に転がる、ぴくりとも動かない身体の数は二十。二十一人目にして、初めて反撃の意思を見せてきた相手が仕留め納めというのも、そこそこに喜ぶべきことかもしれない。(なにせ殆どの獲物は、僕の姿を見ただけで逃げ出してしまう位だから)

勢いだけで振り下ろされた角材を避ける。

握り直したトンファーの切っ先に、意図していたよりスピードが乗ったことに僕は気付いたけれど、今更手加減する気は起きなかった。一秒にも満たない時間内での計算。このまま殴ったら、この獲物は致命傷を負うだろう。が、それでも別に構わなかった。事後処理は、風紀委員たちに任せればいい。



死になよ。



心の内でそう告げるのと殆ど同時に、獲物の骨を砕く筈だったトンファーは、しかし空を切った。



「……何やってんだ」



背後から掛けられた、咎めるというよりは苦笑めいた響きの滲む声。



「そいつのこと殺す気か、お前」



言葉と同時に、僕の顔の横を何かが通り過ぎた。
びゅ、と鋭い音が立つ。今更確かめるまでもない。聞き慣れたそれは、革鞭が空気を裂く音だ。




 後ろを振り返る前に、僕は視線を下方に落とした。
仕留め損なった獲物が仰向けになって倒れている。頭を打ったのか意識は無いようだけれど、あのまま僕の攻撃を喰らうより、余程幸運な幕切れだろう。少なくとも、命は落とさずに済んだのだから。

そのまま、周囲に視線を巡らせる。
目に留まったのは、路地の壁に沿って据えられた配水管だった。

ああ、と僕は納得した。
僕の背後から放った鞭を此処にくぐらせて、軌道を変えたのか。そして捕らえた獲物を、トンファーの間合いの外へと。……どうやら、跳ね馬の異名を持つ男の腕は微塵も錆び付いてはいないらしい。今の一連の動きが、何よりもその証明だった。




 「僕の邪魔、しないでくれる」


振り返った先には、思った通りの相手が立っていた。


「邪魔じゃなくて、迎えに来たんだ」
「……迎え?」
「ああ。日本は久しぶりだしな。一番初めに、お前に会いたかった」


 戦いを中途半端にされてしまった苛つきを、僕はトンファーを納めることで散らした。理由は簡単だ。彼が、ディーノが目の前にいるのなら、つまらない獲物なんて放置してしまっても構わない。


僕が、戦いを純粋に愉しむことが出来る相手。


ずっと待っていた相手が、ようやく姿を見せたのだから。






 「恭弥」

ゆっくりと近付いてきたディーノの目が、僕のことを見下ろしている。
茶色とも金色とも違う目の色。透き通る鉱石のような。……彼以外に、こんな目の色をした人間を、僕は知らない。

「濡れてる。髪」

いつの間にか伸ばされていた指先に、僕の髪は掬い取られていた。

「触るな」
「少しだけ、我慢しろよ」

苦笑を湛えた声。
この声をこうして聞くのは久しぶりだけれど、いつ以来だとか、記憶を遡るそんな手間は必要無かった。思い出さずとも覚えている。……去年の夏、だ。空が高くなったと感じ始めた頃に海の向こうの国へと帰った相手は、その後一度も姿を見せなかった。今日の、このときまで。


「久しぶりだな。……会いたかった、恭弥」


理由は分からないけれど、僕は全部覚えている。
ディーノがいつ日本に来たか、僕に何を言ったか。そして僕が彼に、何を言ったか。


『会いたかった』


そう、この言葉も、いつも彼が僕に向かって言うことのひとつだ。
今みたいに髪に触れながら、僕の顔を真正面から見詰めながら、何かを懐かしむみたいな声で、いつも。





 「離せ」


ちり、と。
胸の中で一瞬何か焦げるような、息苦しいような感覚が走った。
反射的に浮かんだ言葉を口にした僕を、ディーノはしかし解放してはくれなかった。


「……苛ついてんな。どうした?」


両頬を掌で包まれ、少し仰のかされる。
ぽつぽつと降り落ちる雨粒は冷たくて、けれどディーノの掌が触れている場所は、酷く熱い。この感覚は……そうだ、あれに似ている。以前罹った、春に咲く花の名を持つ病。身体全部が熱くなって、心臓の音が煩くて、そして咽喉が渇いて、目を開けていられなくなる。そんな苦しさ。

「あなた、が」
「オレが?」

僕は、ゆっくりと目を閉じた。
瞼の微かな重みに任せるようにすると、少しだけ楽になる気がする。


「あなたが、僕の邪魔をするのが悪い」


目を閉ざせば、暗闇。
僕に触れている相手の顔は見えなくて、感じるのは触れている掌の感触だけ。視覚を封じたことで鋭くなった他の感覚が、周囲の気配を拾い上げる。地面を打つ雨音、肺を満たす雨の匂い。そして、ディーノが纏っているどこか甘い香り。


「……さっきのは、オレじゃなくても止めてる」


僕の言い分を否定する、ディーノの声。


「あんな戦い方、ここでするべきじゃない。すべき相手でもない。お前だって解ってる筈だ」


けれどそんなことは、想像の範囲内だ。
僕に戦い方を教え込んだ張本人のくせに、彼は時々矛盾したことを言う。
……確かに、僕も解っている。でも彼の言い分は、無性に僕を苛立たせることがあるのだ。



「じゃあ、いつ、誰にならいいの」



僕は、ディーノの掌に頬を寄せた。

「……恭弥?」

彼の声に滲んだ、訝しげな疑問の色を無視して続ける。


「あなたは、いつもそればかりだ」


頬に触れる掌の感触。
こんな風に、まるで壊れ物を触るみたいな仕草をしてみせるこの手が人殺しの手であることを、僕は知ってる。
他でもないこの人が、自分で僕にそれを教えた。なのに。



「でもあなたは前みたいに、自分で僕と戦おうとはしなくなった。……理由は?」



そうだこれは、僕の中で凝り固まっていた疑問。

多分これが、全ての原因。――草食動物をいくら狩ってもおもしろくないことや、戦いに集中出来ないこと、それにディーノの声を聞くと、傍に気配を感じるとどうしようもなく苛つくような、苦しいような気分になることの原因。


この問い掛けの答えを聞けば、謎は全部解ける。


僕はふいに、そう直感した。




「……答えて」




ディーノ。



滅多に口にすることのない名前を、僕は心の中で呟いた。……多分彼から答えは戻らない。今もきっと、ディーノは困惑とそして苦しいのと痛いのが綯い交ぜになったような色を目に浮かべて、僕のことを見詰めているんだろう。



「……恭弥」



ああ、やっぱり、苦しそうな声だね。
でもあなたも、今のこの瞬間くらい我慢すればいい。そうすればきっとあなたにも、僕の感じている苛立ちが解る筈だから。



あなたと戦うと、愉しい。
……それなのに、何かが苦しいんだ。



他の何よりも大切で心地良い筈のこの町の中で。



それなのに、あなたのことを考える度に、僕はいつも苦しいんだ。

 

 

>fin.