どうしてもきみに会いたかった
written by Miyabi KAWAMURA
2010/0130
「……珍しいお客様発見」
午前三時を四十五分程過ぎ、真夜中よりも若干早朝の方へと傾きかけた冷たい空気の中に、愉しげな声が響いた。
「こんばんは」
――シズちゃん、と。咽喉を鳴らしている猫みたいな声で付け足された呼び名に反応して、金色の髪をした咥え煙草の青年のこめかみに、ぴき、と青筋が浮く。
「……死ね」
「やだ」
短くかつ物騒な遣り取りの間に、互いの距離が縮まっていく。
新宿の高級マンション。廊下。真夜中。そして季節は冬。……折原臨也の部屋の前には今、部屋の主である臨也と、そして彼の部屋の扉に凭れるようにして立っている平和島静雄の二人しかいない。
「なにしに来たの。――なんて、聞かなくても分かるけど」
「話が早えな。……だったら死ね。殺す」
「だーかーら、それは嫌だって。ひとの話ちゃんと聞いてる?」
シズちゃん。
一度目よりも軽やかな、語尾が跳ねるみたいな声音で言われて、静雄の表情が完全に険しいものに変わった。
「うっわ。……機嫌悪いみたいだねえ、相当」
「誰のせいだ」
「一応言っとくけど、【俺のせいじゃない】よ」
「……あぁ?」
「だから、【俺のせいじゃない】って。少なくとも、【今日のは違う】よ。信じるか信じないかは、シズちゃんの勝手だけど」
薄い唇から零れていく言葉に、微かな足音が重なる。
「……要するに」
「要するに?」
「俺をイラつかせるような小細工を、今日はともかく【いつも仕掛けて来てんのは手前だ】っつーことを認める訳だな」
妙に愉しげな臨也とは対照的に、静雄の表情は一向にプラスの方向に傾こうとはしていない。むしろ無表情。眉間に寄せられていた深い皺が消え、見た目に分かり易い「怒り」の感情の要素は消えたというのに、それが余計に、静雄の内にある苛立ちなり怒りなりを際立たせているようだった。――もしこの場に居合わせた者がいたならば、その人間はきっと、瞬時にしてこの光景に背を向けて逃げ出していたことだろう。平和島静雄。池袋最強の男。決して関わってはいけない人間。純粋にして危険極まりない、暴力のかたまり。そう称される青年が『こんな表情』をしているときに、好き好んで自分から傍に寄っていくなど。そんなこと、マトモな人間なら絶対にしないだろう。……けれど。
「それはそれ。今は関係ないし」
……逃げ出すどころか。
不意に伸ばされた臨也の指は、次の瞬間、静雄の頬に触れていた。
「冷たいなあ」
当たり前のように伸ばされた指。当たり前のように両頬を包み込む掌。……本当は全く当たり前なんかじゃない、正に天敵と呼ぶに相応しい静雄と臨也の間柄に於いては有り得る筈もない種類の、それは接触の仕方だった。
「ここで何時間待ってたの? ていうか、なんで俺のこと待ってたの」
氷みたいだ、と、静雄の頬の稜線を辿るようになぞって笑うと、臨也は言葉を続けた。
「何かイヤなことでもあったのかな? ――で、それを俺のせいだと思って、ぶん殴ってやろうと思って此処まで来ちゃった。……正解?」
「……そこまで解ってんなら、大人しく殴られろ」
「冗談じゃない」
二人の間に、静雄が咥えていた煙草がぽとりと落ちる。紫煙の匂いだけを残して眼下に消えた、否、消してやったそれに目を落とすこともなく笑った臨也の唇から、白く凍った吐息が溢れた。
「それ、完全な八つ当たりでしょ。しかもあまり意味が無い。――イライラする。仕方ない臨也でも殴りに行くか。まあそう考えちゃったシズちゃんの気持ちと単細胞さは解らなくもないけど、でも俺に会ったら、殴ってスッキリする前に余計にイライラしちゃうくせにね?」
愉しげでいて鋭い臨也の声は、吐息と一緒に凍って静雄の唇を撫ぜる。
「……いい加減離れろ。邪魔だ」
牙を軋らせた猛獣の如くに低く言った静雄の言葉は、いやだ、のひとことで拒否された。
「ひどいな。あたためてあげてるんだよ、この俺が」
「余計冷てえんだよ馬鹿」
「そりゃ、冬だし夜だし」
冷たい、と文句を言われた指先でわざと静雄の首筋をなぞると、臨也は、すう、と目を細めた。
「……良いこと教えてあげようか」
僅かにだけ踵を浮かせ、自分より約十センチ背の高い金色の髪の青年の首に両腕を回して。
「本当は、俺も今日――正しくは昨日だけど、【仕事】でつまらないことがあったんだ」
まるで気紛れな黒猫が、気に入りの人間に餌をねだるときの姿を思わせる仕草で、臨也は静雄の首筋に口元を埋めた。
「だから、シズちゃんが来てくれて良かった」
鼓膜を揺らす、透き通った冷たい声。
は、と、大きく息を吐くと、静雄はそれまでズボンのポケットに突っ込んでいた両手を動かした。ゆっくりと持ち上げ、両腕で臨也の身体を、相手が纏っている冬の冷たい空気ごと抱き締める。けれど、それは。
「ずっと会いたかったんだ」
けれどそれは、甘やかな告白でも、ましてや抱擁などでは決してなく。
「おかげで、つまらないこと全部忘れられた」
金色の髪から覗く首筋に立てられた爪、薄い背に回された腕。その両方にじわりと篭められた力に滲む、拒絶と嫌悪と否定と執着。
「……最高に、最悪な気分だ」
唇が触れる間際、どちらともなく吐き出した言葉はやはり、鋭く固く、凍てついていた。
>>終
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