コイノケイリャク


written by Miyabi KAWAMURA
2010/0206






「せっかく池袋に来たのに、シズちゃんが見付けてくれないからさ」



 会いに来ちゃったよ。――そう言って、椅子を引いて座り。足を組んで愉しげに笑って、更に手を伸ばして静雄の目の前に置いてあったバニラシェーキのカップを奪い取っていったというこの一連の臨也の暴挙に対し、静雄が何もせずに、止めることも殴ることもせずに見送ることしか出来なかったのは、なにもその行為を許容したからではない。

否、むしろ赦すどころか。
本当は殴ってやりたかったのだ。いつもの通りに。


「……ッ、の、泥棒猫がああああああああああ!!!」


 いささか古風な表現を用いた怒鳴り声を、静雄が自分の胸の内だけで爆発させたのは、バニラシェーキだけでなく、その隣に置いてあったハンバーガーやらポテトやらの食べ物までをも、トレイごと臨也が自分の方に引っ張っていってしまった瞬間なのだが、実際に出来た抵抗といえば、ただ無言で相手の顔を睨み付けることだけだった。
勿論、静雄がされるままになっている理由はある。……「加減」が、出来ないのだ。

「でもアレだ、気持ち悪いね」

 気持ち悪いのは手前の方だ。殆ど瞬間的にそう思ったのと同時に動きかけた自分の右腕を、静雄はギリギリの所で制した。


「シズちゃんが大人しいと、本当に気持ち悪いねえ」


 ニヤリ、と表現するに相応しい類の笑みを浮かべた臨也は、自分の言動が静雄の苛立ちを間違いなく煽っていると、当然解っているのだろう。なのに止めようとしないのは、「今の」静雄には、自分を害することが出来ないと確信しているからだ。


「熱、どれくらいあるの?」


 大丈夫? と、さも心配しているように聞かれても、有難くもなんともない。死ね。今すぐ死ね。殺気の篭もった静雄の視線を真正面から受け止めながら尚も笑うと、臨也は、ゆっくりと言葉を続けた。



「風邪、早く治るといいね。シズちゃん」









 力の加減が出来ない。


 静雄が自分の身体に起きた異変に気付いたのは、今朝目を覚ましてすぐのことだった。


 手に取っただけでボキリと折れた歯ブラシ。インスタントコーヒーの瓶のプラスチック製の蓋は、開けようと捻った瞬間に潰れた。牛乳パックにいたっては、崩壊と同時に中身が床に溢れて大変なことになった。――ちなみに、最初の「被害者」は、目覚ましのアラームをセットしていた携帯電話だ。定刻通りに響いた電子音が止まると同時に、携帯電話はその生命を終えた。……主である静雄の手によって握り潰されたのだから、携帯にとっては本望だったかもしれない。

 わざとしている訳では決してないのに、自分の周りで立て続けに起きる破壊現象をどうにか遣り過ごして身支度を整えた静雄が職場には着いたのは、いつもより二十分程遅れてのことだった。そして。


「……お前、今日、ヤバくねえか」


 掌の中で無残に潰れ、ひしゃげてしまってたオフィスの玄関のドアノブを苦い表情で見詰めている静雄の横顔に掛けられた上司の声。――確かにヤバい。その瞬間、静雄も改めてそう思ったのだ。








「それにしても、のどかだねぇ」


 耳に届いた声に、静雄の眉間に寄った皺が深くなった。そしてそれにつれて、今朝から頭の奥に住み着いている、重くて鈍い、熱を伴った痛みが強さを増す。

「天気も良いし、それになにより、街が静かで平和だ」

 ね? と同意を求められても、返すつもりなど静雄には無い。
尤も、相手だってそんなもの、最初から求めてはいないだろう。多分、否間違いなく、今静雄の目の前にいる人畜有害にして悪趣味な情報屋は、「観察」をしにきただけなのに違いなかった。


「でも、本当なんだね。……鬼の霍乱、ってさ」


 一旦言葉を切った臨也が、ぱくりとストローを咥えた。
 じゅ、と音が鳴って、バニラシェーキの――静雄の上司であるトムが、38度6分の熱を出していることが判明し、ひどい頭痛だけでなく咽喉までやられて声すら出なくなってしまった部下の為に、奢りだといって置いていってくれたシェーキの、それが最後の一口だったことが知れる。

「力自慢だけが取り得のシズちゃんなのに、風邪なんかで力が使えなくなっちゃうなんて、信じられないよ」

 ふう、と大仰に溜め息をついた臨也の声音には、心の底から旧知の友人を心配しているような色が滲んでいる。器用なことだと、静雄は思った。勿論それは賛辞ではない。嫌味だ。

「まあとにかく、お大事に」

 付け足された言葉を聞いて、心底静雄は、目の前の相手のことを殴りたくなった。――正確に言えば、別に静雄は、力を使えなくなった訳ではない。むしろ逆だ。風邪との因果関係は不明だが、力の制御が効かなくなっているだけで、要するに殴ろうと思えば臨也を殴ることも出来るし、加減が効かなくなっている分、そのままこの「天敵」をぐちゃぐちゃに叩き潰してやることだって可能なのだ。……臨也だって、それを当然解っている筈で、なのに、のこのこ静雄の目の前に現れたばかりか、煽るように絡んでくるのは、臨也が、「今の静雄は自分にとって無害である」と確信しているからに他ならない。



 ノミ蟲野郎が。



 ……只でさえ頭が痛いのに、臨也のことを考えていると気分までざらついてくる。だったら考えなければいいのだが、ありとあらゆる意味で、静雄にとって臨也は無視することが難しい存在であることもまた、事実で。そのどうしようもない負の連鎖に掻き立てられた苛立ちを拳の代わりにぶつけてやるつもりで静雄が臨也の方を睨み据えた瞬間。
頬杖をついていた相手が、視線を横に流して、不意ににこりと笑った。

 線の細い、綺麗に整った容姿に浮かんだ笑み。

 臨也の本性を知らない人間が目にしたら、十人中十人が彼のことを好青年だと、善人だと信じてしまうような笑み。けれど静雄は、臨也が今何に向けてそれを送ったのか解っていたから、余計に苦々しい気分になった。――子供、だ。平日の午後の、ファーストフード店の中。静雄と臨也のいるテーブルの二つ隣には、子供を連れた、若い母親のグループがいた。そして「それ」こそが、今この瞬間、箍の外れた静雄の「力」から、臨也のことを「守って」いる鎧に他ならなかった。――「今の静雄」が怒りに任せて拳を振るえば、確かに臨也のことを再起不能な程に叩き潰すことが出来るだろう。けれど、そんなことをして周囲を巻き込まずに済ませる筈がない。……陽の光が差し込む窓辺に席に座っている黒髪と金色の髪をした二人連れが、かの折原臨也と平和島静雄であると解っている人間は、とっくに周囲の席から避難している。が、「表側」の「平和な世界」に属している通りすがりの人間に、それを求めるのは無理な話だ。……結論として、臨也が笑いかけてみせた子供、同じ幼稚園にでも通っているのか、はしゃいだ声を上げながらハンバーガーのおまけについてきた玩具で遊んでいる三人の子供たちは、本人たちは勿論、母親たちも知らぬ間に、いまや臨也の「人質」として利用されてしまっていた。



「シーズーちゃん。どこ見てんの」



 掛けられた声に、静雄はいつの間にか「人質」の方へと向けてしまっていた視線を、目の前の相手へと戻した。――艶やかな、炎を孕んだ氷のような笑み。赤い目で静雄のことを睨め付けるようにしながら、けれど同時に誘うような声を出すのは、臨也が何かを愉しんでいるときの癖のようなものだ。


「ちょっと思ったんだけどさ」


 ……いやな予感がする。

 臨也のそのひとことを聞いた刹那、頭痛と、咽喉を内側から裂くような痛みが更に増したような気がして、静雄はぎちりと拳を握り締めた。


「シスちゃんの風邪さ、別に治らなくてもいいよね」


 愉しげな、語尾に笑みを滲ませた臨也の声。その声が今から形作ろうとしている言葉はきっと、過去最高に自分のことを苛立たせ不快にさせるだろう。その予感が、静雄にはあった。



「今のまま、何も抵抗出来なくて悔しいまま……、」



 高くて軽やかな、子供の声が臨也の声に被る。取り合いになっていた玩具を誰かが落としてしまったのか、静雄と臨也が座っている席のすぐ横まで転がってきてしまったそれを、小さな手が拾い上げた。――「人質」が、近くにいる。見なくても解る。傍らのその気配に静雄は気付いていて、そして間違いなく、臨也も気付いている筈だった。






「――俺のことだけ、見てればいいよ」














>>終

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