LOVE TEROLLIST
written by Miyabi KAWAMURA
2010/0723
「ずっと不思議だったんだけどさ」
会話の合間にふと思い付いた話題を唇に乗せるような、そんな軽い雰囲気が、臨也の呟いたひとことには滲んでいた。
「シズちゃん、なんでここの住所、知ってる訳?」
ここ。――要するに、情報屋・折原臨也のオフィスのことだ。
「俺は教えてないよね。誰かに聞いた? それとも自分で調べたとか?」
まさかね、と、自己完結して笑った臨也の声に、めきりともギシリともつかない、金属のひしゃげる音が被った。
「あーあ。どうしてそういうことするかな」
「黙れ」
「それ、このマンションの住民全員の共有財産なんだけど。……困るんだよね、そういうことされると」
眉を顰めて、けれど口元には薄い笑み。――嘘だよ。本当は、全然困ってなんかいない。……あからさまに、わざと裏表をちらつかせてくる臨也のそういうところが、静雄のことを余計に苛立たせる。
「……困りゃしねえだろ?」
新宿の高級マンション、廊下の隅に飾られていた金属製のオブジェ。それを右手一つで握り潰した静雄は、ゆっくりと続けた。
「どうせ、手前は、ここで俺に殴られてぶっ潰れて死ぬんだ。困らねえだろ? ……なあ」
臨也。
――自分の唇から吐き出されたその名前を、音として耳が拾い上げた刹那、ざわりと、静雄の全身を巡る血が騒いだ。
なんで。どうして。……臨也が発した問いに、結局静雄はひとつも答えを返さなかったし、そして臨也の方にもまた、積極的に答えを求めるつもりはなさそうだった。
「相変わらず……、の、馬鹿力だ」
つい先刻、壁に打ち付けられたばかりの背が痛む。
これは間違いなく痣になっているだろう。頭の片隅でそう思いながら、臨也は笑った。
……息を継いだ途端に走った痛みのせいで声が途切れてしまったことは、まるで負けを認めさせられたみたいで面白くないが、けれど仕方がないことだ、と、臨也は思考を切り替えた。
目下のところ、平和島静雄と折原臨也の実力は拮抗していると思われているが、しかし純粋な腕力勝負となれば、臨也の方が遥かに分が悪い。池袋最強の男と相対して、この程度の手傷を負うだけに留めていること自体、殆ど奇跡に近いのだから。
「ちょっとは手加減してくれない? ……こんなときくらいはさ」
「黙れ。ついでに死ね」
「やだ」
即答し、浅く息を吐き出した唇に、暖かなものが触れる。重ねられた薄い皮膚。血の匂いがするのは、臨也の唇の端が切れてしまっているからだ。
「……っ」
がつ、と歯列がぶつかる。甘ったるさの欠片もない、乱暴な口付け。
無理矢理に割られた歯列の合間に捻じ込まれた静雄の舌を自分の舌で受け止めると、臨也はそれを、緩く噛んだ。
ぐちゅ、と頭の中でぬかるんだ音が響く。
煙草の匂いと血の味が混ざった唾液。生ぬるい体液を飲み下して蠢いた咽喉の動きにつれて、静雄の舌が臨也の口腔の深くまで潜り込んだ。
「――ッ、ン、っ」
柔らかでいてざらついている肉塊に、内側から粘膜を愛撫される。臨也の全身が、細かに震えた。咽喉の奥を弄る異物を追い出そうとする身体の反応と口付けの快感とか混ざり合って、動物の啼き声めいた、くぐもった声が零れる。
「ぅ、んぁ……っ」
いつの間にか、まるで口付けをねだるように仰のいてしまっていた細い顎が震える。
しかし、僅かに離れた唇の合間で零した声は、真上から噛み付くようにされて奪い取られ、中途半端に途切れてしまう。
「っ、ン、……、ぅ」
掻き混ぜられ、奥を突かれて、また掻き混ぜられる。呼吸すらままならない。互いの吐き出した息と唾液とを口移しにしながら続ける、喰らい合うような交わり。
「……、っ……ん、ッ!」
ごく、と咽喉を鳴らして二人分の唾液を飲み込んだ刹那、胸を満たした煙草の香りに、臨也の表情が歪んだ。四肢の先に、じわりと痺れるような熱が灯る。次第に身体の中心へと向かって這い上がってるそれを散らそうとして身体を捩ると、それに気付いた静雄が動いた。
「――ッ」
臨也の左右の手首が、ミシリと軋んだ。
背にした壁に、縫い止められた両手。骨が軋むほどの力で握り込まれた左右の手首からは、背を打ったときとは比べ物にならない位の痛みが生じている。
「……駄目、だよ」
己の手首の状態をどこか他人事のように評して、臨也が薄く笑った。
「折れる……、って」
唇が触れ合うたびに、言葉が途切れる。
静雄の左右の手によって掴まれ、壁に押し付けるようにされた両手首は、完全に自由を失っている。これでは逃げられない。静雄は、臨也のことを逃がすつもりはないのだろう。けれど臨也の方だって、逃げるつもりなぞないのだ。
「――、ズちゃ……、っ」
自分の口から零れた、とろけきった声音を耳で捕らえて、臨也は胸の内で失笑した。
――この状況は一体なんだ、と思う。……ほんの数分前まで、自分達は殴り殴られナイフで斬られの、それこそマンションの住民の誰かに見られたとしたら確実に警察を呼ばれてしまうだろうレベルの「喧嘩」をしていたのだ。静雄だって、臨也を殴るつもりでここに来たのだろう。なのに、どうして。
「痛、っ……」
不意に手首を捻られて、流石に臨也の表情が歪んだ。
……マンションの廊下という狭く限られた空間は、如何にも自分にとっては不利。だから早々に安全地帯へと――自分の部屋へと退きあげることに決めたのに、それを簡単に赦してくれる程、静雄は甘くなかった。……結局、掴まれた腕を引き摺られ、壁に向かってタックルされるような形で、二人揃って部屋に雪崩れ込んだのだ。――そのときまでは、確かにいつも通りの、池袋の町で遭遇したときに繰り広げているような、いつも通りの「喧嘩」を自分達はしていた筈だ。なのに。
「……おかしい、よね」
すう、と指先が冷え、薄っすらと痺れていく。
このままでは、手首の骨も腱も砕き壊されてしまう。そう思うのに、けれど臨也の意識が傾いていく先は、その痛みではなく触れ合ってる唇の感触にだけなのだ。
――ああ。……また、『やられた』。
忌々しいのと愉しいのと悔しいのが一緒くたになったような、表現し難い感情。その末に臨也が選んだ表情は、薄い笑みだった。――薄い紫色のレンズ越し、間近に見詰めた静雄の目に険が滲む。それを確かめて目を閉じると、臨也は自ら唇を開いて、自分の内側を静雄に明け渡した。……本当は悔しい。静雄の作った訳の解らない勢いに流されたみたいで、ものすごく悔しいのだ。けれど、僅かながらの意趣返しは確実に成功した。
「……余裕じゃねえか」
獣の唸り声めいた、低く擦れた声に唇を撫ぜられ、臨也は緩く笑った。
苛立っている。静雄が、どうしようもなく苛立っている。多分、先刻自分の目の前に現れたときの、倍以上に。
不意に抱き上げられ、傍らにあったソファの上に放り投げられた。
ギシリとソファが鳴り、襟首を掴み上げられる。露わになった首に齧り付かれ、まるで獣に圧し掛かられているような錯覚を覚えて、目を細めた。……もし、今ここで。静雄が本当に自分のことを喰らおうとするならば、それはそれで悪くないかもしれない。そう思ったのだ。
――命懸けの、「喰らい合い」。
それを、ここで。
女神の首が眠るこの部屋でしてみせたなら、求める扉が、開くかもしれない。
「……臨也?」
呼ばれ、見据えられて、臨也は尚も笑った。愉しくてそして下らない、児戯みたいな思い付きだ。……けれど試してみたい。試す価値は、あるかもしれない。
ソファに投げ出していた腕を、ゆっくりと持ち上げていく。
振り払われることもなく、途中で捕らわれることもなく、金色の髪に辿り着いた、指。
女神の首を腕に抱いたときの重みを思い出しながら、臨也は赤い目を閉じた。静雄の頭を抱え込むようにしながら、自分の方へと引き寄せていく。
「臨也」
もう一度呼ばれても、臨也は応えなかった。……これは、賭けだ。世界を終わらせることになってしまうかもしれない、賭け。
臨也は、指に絡めた金色の髪をきつく掴んだ。
気付けるなら気付けばいい。
いつも自分の邪魔をする忌々しいくらいの勘の良さで気付いて、この指と腕とを払い除けて、馬鹿げたこの企みを握り潰してみればいい。
身体に掛かる重み、頬を掠める髪の感触。唇を薄く開いて、臨也は顔を傾けた。
――あと少しで、唇が重なる。
>>終
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