愛機をバックにした青島次郎氏
(大体こんなイメージの方です) |
第一次世界大戦は航空機が新型兵器として一躍脚光を浴びた戦争でもありましたが、その大戦も真っ最中の1915年、日本では飛行機に憧れた弱冠18歳の若者が、飛行家となる為に単身故郷静岡を後にして上京したのです。それはまだ日本人最初の国内飛行から5年しか経っていない、日本の航空機黎明期でした。
青年の名は青島次郎。そして彼は苦節8年の後の1923年、遂に飛行免状を取得して憧れの飛行家となったのです。
彼はその後模型飛行機販売店である青島模型飛行機を経て青島文化教材研究所を設立し、戦中戦後の模型飛行機ブームを支えた立役者となりました。
こうして時代を駆け抜けた次郎氏でしたが、戦後間もない1949年に脳溢血で他界し、その後を25歳という若さで継いだ息子の一郎氏が翌年青島文化教材社…今のアオシマを作り上げました。
青島文化教材社は当時の流行であった模型飛行機メーカーとして隆盛を誇るのですが、同じ静岡のメーカーである田宮と同様、世のプラスチックモデルブームによってプラモメーカーへと転身して現在に至ります。
1964年に発売された1/72精密大戦機シリーズは同社の超ロングランヒット商品としてその後40年近くリリースされました。
日本のプラモデル市場では問屋主導の商品販売戦略があったとも言われていますが、精密大戦機シリーズは市中在庫が切れそうになる度に「青島さん、そろそろまたアレ打とうよ。」と問屋サイドから持ちかけられて再版を重ね、しかもその都度必ず一定期間内に売り切れるというサイクルを繰り返していた、という話があります。
あのシリーズは今でこそ大らかなテイストの素朴なキットといえますが、しかしこういったエピソードが語り継がれる名キットを昭和30年代に生み出した事は、これもある意味アオシマが飛行家の遺伝子を色濃く宿したメーカーである証拠かもしれません。
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現時点で最も初版の確度が高い初期サンダーセブンのパッケージ。(画像提供へんりーさん) |
その青島文化教材社は、1966年に突如オリジナルデザインのSFプラモデル「SFサンダーセブン」を発売します。 1966年と言えば我が国ではサンダーバードが放送されて大ヒットとなり、その後今井科学のサンダーバードシリーズが大ブレイク!他の模型メーカーもそれに追従してサンダーバードメカ風SFプラモデルが山ほど市場に溢れた時期でした。アオシマの研究本ではそういった世相を意識して、このサンダーセブンもサンダーバードにインスパイアされたメカだと分析していますが、果たして本当にそうでしょうか?
サンダーバードがNHKで本邦初のTV放映を開始したのが1966年の4月ですが、このSFサンダーセブンの発売も将にその放映開始と同時の4月だったのです。(業界紙への告知は2月との資料もあり)
サンダーバードプラモの本家である今井科学のキットですら、まずはイマイの社員が毎週テレビの前にかじりついてメカを描き写して木型を作ったというエピソードがあるくらいで、最初のキットリリースであるTB2号はNHKの初回放送が終了した1966年12月。以降5号が翌67年3月、4号が4月、1号が5月と続いて、プラモデルのサンダーバードブームは実は1967年こそがピークだった事が分かります。
それでは一体「SFサンダーセブン」を生んだ真のルーツは何か?動く模型愛好会学芸員の分析では、これはズバリ1965年12月に日本公開された007(当時はダブルオーセブンではなくゼロゼロセブン)「サンダーボール作戦」の敵側メカ、「水中戦車」であると結論付けています。
そうして改めてこのキットを見ると、サンダーボール作戦とゼロゼロセブンという符丁、操縦席を持つ胴体中央部を軸に左右にふくらむボリュームのあるボディー。劇中の水爆キャリアーに相当する部分からは水中ミサイルが発射され、艇体前部には車体に不釣合いなほど華奢に映る車載の水中モリを構えています。そして艇体に取り付いて躍動する武装フロッグメン達…。
どうです?もうアナタは事の真実に確信が持てたのではないでしょうか?
水中戦車はそのものズバリのメカが今井科学から発売されましたが、それより数ヶ月前にアオシマは自社オリジナル解釈の水中戦車「サンダーセブン」をリリースしていた事になります。
飛行家の遺伝子とは実は単に飛行機好きの遺伝子ではなく、先進のテクノロジーに対する夢と希望の現れであり、そういった意味でこの「サンダーセブン」を嚆矢とするアオシマのSFメカ世界こそ、青島次郎氏が求めて止まなかった夢と希望を表すアオシマの精神だと言えるのではないでしょうか。
ここで余談です。このキットの特徴は何と言ってもゴム動力でありながら後輪とスクリューを同時に駆動する水陸両用メカである事ですが、逆にこの部分は前年の11月に他ならぬ今井科学から発売された「流星号」の影響があるのではないか?という考察もあります。
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1966年の春にサンダーセブンを発表した青島は、同じ年の4月に弟分キットを送り出しました。これこそが今回の俺メカコンテストのテーマである「SFジュニアサンダーセブン」でした。
ページトップに張ったボックスアートと同じもののトリミングですが、ここであらためてその優れたメカデザインを御覧下さい。
まず純粋にメカとしてこのイラストを見た時に真っ先に感じるのは、殆どセンチュリーシリーズを彷彿とするジェット戦闘機そのものに見える本体のデザインです。
帝国海軍が太平洋戦争末期に作った特殊潜航艇海竜の「中央舵」は一見潜航舵のようにみえますが、実はあれは航空機の補助翼ように動的機動性能を海中で発揮する為の「水中翼」で、ジュニアサンダーセブンのこの短い翼も、このメカが将に水中戦闘機である事を雄弁に物語っています。
次にこのイラストをパッケージイラストとして見ると、当時のアオシマのパッケージをほぼ一手に引き受けていたイラストレーター梶田達二先生の特色が色濃く漂っているのが分かります。
梶田先生と言えば、師である小松崎茂氏の殆ど直系ともいえる傑出した「赤」の使い方が特徴的で、無骨な金属感を出す艇体上面と対照的に、艇体の半分以上を占める「梶田RED」が強いインパクトで見るものを惹き付けます。
梶田先生の青島プラモデルパッケージでは、1/72精密大戦機シリーズのバッファローやゼネコン版タイガーキャプテンの真っ赤なバックなども印象的です。
小松崎作品との共通点という意味では、水ものキットとしてのこのイラストが、海をカッティングモデルのように切り取って水中と水上を同時に描いているという点も興味深いものがありますね。
メインどころに対してその弟分メカをジュニア○○として出すというのは、将にそれ以前に今井科学がサブマリン707で展開した図式ですが、それが当時の子供達にとっては極めて受け入れられやすい商品展開であった事は、我が国のプラモデル文化を語る上でも重要な点です。
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ジュニアサンダーセブンの初版に同梱されていた透視イラストの飾りタグ。
パッケージイラストもさることながら、この単純化された線で表現されたイラストは、ジュニアサンダーセブンのデザインを大変分かり易くしています。
これは兄貴分の「サンダーセブン」でも採用されていたものですが、左下の説明のように下部を山谷折りにしてスタンドとして立てる事も出来ました。
他愛も無いと言えばそれまでですが、こういった楽しいアイディアのオマケも今ではとんと見かけなくなりましたね。
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キットの中身は概ねこんな感じです。キット自体は単純にゴムでスクリューを回す構造になっていますが、微妙な本体のラインが良く分かるショット。
後ろの赤い部分は艇体下部ですが、ゴムの交換の為に中央部が大きく開いているのが見えます。
シンプルながら破綻無く纏められた基本デザインは、今見ても45年前の年少者向けプラモデルとは思えないセンスを感じさせますね。
兄貴分のサンダーセブン(水陸両用)、このジュニアサンダーセブン(水中専用)、そして更に後発のサンダースペース(水陸と、更に空も!)の水もの3兄弟のデザインは、オリジナルメカデザインとしては当時のライバル今井を凌駕し、ミドリのそれに比肩する高いレベルのものであった事は、当時を知る誰もが認める所だと思います。
今度はキットの組み立て説明図を見てみましょう。
この図版の特徴は、何をおいてもまず明確で繊細な、ドローイングの線でしょう。
CAD/CAMの無かった当時、当然これは人の手による製図によって作成されたものですが、これは当時の国内プラモデルメーカーではダントツに美しい組み立て説明図だといえます。
因みに、バネで発射されるミサイルを発射台にホールドする機構は、当時の他社の多くがテコの原理を応用したレバーでミサイルの根元の穴を引っ掛けるという如何にも”見え見え”の設計でしたが、このジュニアサンダーセブンは、艇体の裏側からホールドピンでミサイルを固定しておいて、そのホールドピンをやはり艇体裏側のレバーで艇体の下方向に引き抜く事でミサイルをリリースするという、スマートで凝った方法が取られていました。
その部分は丁度この説明図の上から三段目の5、6、7番目の手順で説明されていますが、お分かり頂けるでしょうか?
大変分かり易く説明されていますね…と言いたい所ですが、余談ながら動く模型愛好会の広報担当であるオヤヂ博士は、子供の時分にこのキットを作った時に悲しい経験をしています。
小学校2年のオヤヂ博士君は、この手順5と6が艇体をひっくり返して表現している事をすぐに理解できず、あーでもないこーでもないとやっているうちに、接着剤ガビガビで発射レバーが動かなくなり、ミサイル発射のギミックを完成させる事ができなかった悲しい過去を持っています。(ダセー、ダセー、ダッセー!)
ところで初版キットにはこんなものが入っていました。→
これは1966年にアオシマが行った販売促進企画「パンチセール」のクーポン券です。
当時のアオシマ製プラモデルの全てにこれが入っていたと思われます。
それにしても応募にはこの券が2枚必要で、抽選によって約4万名に景品が当たるという事は、少なくとも半年以内に10万個を越すプラモデルが業界中堅のたった1社から出ていた計算になります。
これは新製品ですら初回射ちがせいぜい2,000ショットから4,000ショット?と言われる現在のプラモデル事情(しかも当時のメーカー数は現在の数倍)を考えると驚異的な数で、当時一体どれ程のプラモデルが日本中に出回っていたのか、気が遠くなる思いです。
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リアルタイムでこのキットを知る人にとってはこれもまた懐かしい3版目イラスト。(画像提供テルスター中尉) |
当時メーカーが作ったオリジナルSFキット(JOSFキット)はパッケージと名前を変えてその後1980年ごろまで何度も再版される事になります。
このジュニアサンダーセブンにもいくつものパッケージが存在しますが、これは「ジュニアサンダーセブンゴールデンレインボー」版の箱絵です。
これが初版か?という意見もありましたが、1968年(?)から暫く義務付けられていたJPMマーク(日本プラスチックモデル工業協同組合に参画する企業である事を示す会員証マーク)がある事、またアオシマが単発的に発表してきたSFシリーズを「SFパトロール銀河隊」としてシリーズイメージの再編成をかけた時期の記載がある事から、これは1968年3月に発売された3版目だと思われます。
少年雑誌の表紙イラストのような迫力重視の初版に比べ、こちらはメカ全体を丁寧に描き込んだ、より分かりやすいものになっています。外板の微妙なへたり具合まで表現したリアルなイラストです。当時と今では価格価値が違うとはいえ、単にキット内容だけでなく、パッケージを含めたこれだけの総合クオリティを持つプラモデルという商品を、100円で享受出来た当時の少年達はある意味非常に恵まれていたとはいえないでしょうか。
参考までにいうと、アオシマはこの当時SFキット名を若干変えながら毎年再版をかけていますが、この商品のキット名の中に「ジュニアサンダーセブン」と記されている直系の再版を纏めてみると以下のようになります。
・1966年4月(初版) SFジュニアサンダーセブン
・1967年2月(2版) ジュニアサンダーセブン レインボー1型
・1968年2月(3版) Jサンダーセブン ゴールデン レインボー
聞くところによれば当時の問屋さんは、売れ線の商品は同じキット内容でも積極的に箱換えをさせて毎年のように再版を依頼したという事ですので、今まで紹介した2種のパッケージの間にレインボー1型版パッケージが存在する可能性もありますね。2版目からレインボーと付いてはいるものの3版目のイラストではボディに”GOLDEN RAINBOW”と書いてあるので、多分2版目イラストが存在するとしたら3版目とは違ったものではないかと思われます。
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再版版ジュニアサンダーセブンである「SFサブマリンシリーズ・レインボー」のパッケージ(画像提供タミ船さん) |
そして1972年11月にはSFサブマリンシリーズの一員となって4度目のお役目を果たす事になります。
このバージョンでは正式には「ジュニアサンダーセブン」という呼称は外れシンプルに「レインボー」とだけ表記されています。
イラストはリアルな口絵風タッチだった梶田先生の作風とはがらッと変わり、白を基調としたスマートなSFタッチになっています。
今まで何度か「俺SFメカコンテスト」案内ページの中でも言及していますが、このスマートな様変わりはこのキットだけではなく当時の多くのJOSF再版キットに見られる現象です。
白亜紀の恐竜大絶滅前後で生物相が大転換する時期の地層には、その原因と思しき大隕石衝突の痕跡と言われるKT境界層というものが存在しますが、プラモデル界、特にJOSFの世界に於けるKT境界層は、あのアポロ月着陸の”現実としてのSF世界の到来”があるように思われます。
特に世界で一番数多くアポロシリーズのプラモデルを出したアオシマであればこそ、レトロフーチャーなSFメカイメージからの脱却は急速だったのかもしれません。
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ほぼ初版と同じ構成である「レインボー」のキット内容。(画像提供タミ船さん) |
右はその「レインボー」のキット内容の全貌。
昔からプラモデルの成型色にはメーカーによって特徴があり、ニチモの戦車はほぼオリーブドラブに近いミドリだったのに比べてタミヤのそれはブラックグリーン風だったり、クラウンの戦車は妙な黄緑色だったりしました。
SF系のキットではミドリのメタリックブルーの成型色が特徴的でしたが、それ以外でもアオシマの黄色はレモン色っぽい黄色だったのに比べて、イマイのそれはもっと赤みの強いオレンジだったりという事を、子供心に何とは無く感じていたものでした。
それでいうとこのキットは比較的イマイ風の成型色に近い感じがしますね。
元々が単純にゴム動力でスクリューを回すシンプルな構成だった為、再版でも殆ど内容は変わっていない…というかあまり変わりようのない部品分割です。
ただ一点マイナーチェンジといえば、初版のキャノピー上面後端にあった水抜き(?)のための四角い切り欠きが何度目かの再版からは無くなって、キャビン内部が完全に水密となった事が挙げられます。
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そして現在確認されて居る「ジュニアサンダーセブン」の最終版がこの宇宙海艇「コスモファルコン」です。
こういったJOSFキットは元々があまり発売記録を追える資料が多くない為、特に少年雑誌からメーカーオリジナルのSFキット広告がぱったりと姿を消す1970年代以降は発売時期の特定が難しくなります。
意外に思われるかもしれませんが、そういった意味ではこういうチープキットでも日本模型新聞や雑誌広告で発売告知がされた1960年代までの時期のほうが、発売時期の特定が容易だと言う逆転現象があります。
アオシマは何度か自社のロゴを変えています。「ジュニアサンダーセブン」初版に見られる楕円形の中にABK(青島文化教材社)の文字をあしらった初代マークは1960年代後半まで。2代目は"AOSHIMA""アオシマ""PLASTIC
COLOR MODEL"の文字を3段組みにしたもので、これが1970年まで。SFサブマリンシリーズ「レインボー」の箱絵の、小文字の”a”を大きくデザインしたマークが1972年〜1974年。そしてこの最終版「コスモファルコン」の箱絵の人型マークが1975年から…という事を考えると、このキットは1970年代後半頃の発売ではないかと思われます。
イラストは再び梶田先生の手になるものとなっており、「レインボー」とは違ったリアル志向に戻っていますが、初版、3版の動きのあるものとは打って変わり、浅い海底を静かに潜航する「コスモファルコンの活躍想像図」(パッケージ右下参照)となっています。
但し艇体には”GOLDEN RAINBOW”と書かれているので、これは実は「ゴールデンレインボー」と「レインボー」を埋める1970年頃のミッシングリンクの再販キットの存在も感じさせます。
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最後に一つ興味深いトピックスを一つご紹介しましょう。上の画像は初版キット箱絵のボックスサイドに示された「ジュニアサンダーセブン」の遊び方を示す写真解説ですが、キットが上下しているような繰り返しになっており、一見するとこれはこのキットが自動浮沈するような商品のように思えます。
ただ組み立て説明図では左右の潜航舵を上下別々に切ると左右に旋回するとなっていて、上の写真解説でも潜航とか浮上とかでは無く「左せんかい」「右せんかい」となっていて潜航浮上の動きを示しているものではない事が分かります。
が、これは単純に左右を1回ずつ示せば済むところを3回繰り返しているのは、自動浮沈をイメージさせようとしているようにも取れますね。(笑)
こう書いてしまうと見も蓋もないように聞こえるかもしれませんが、これはこのキット云々を言いたいのではではなく、当時自動浮沈というギミックがどれほど革新的でセールスバリューが高いものだったかが分かる証拠として見て頂ければ幸いです。
因みにこの部分は、最終版では下のイラストのようにより分かり易く改定されていて、子供達の勘違いの無いように配慮されていますのでご安心下さい。
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さて今回の俺SFメカコンテストのテーマである「ジュニアサンダーセブン」について、あなたはどんな印象を受け、あるいはどんな思い出を甦らせたでしょうか?
当時の熱い思いを胸に、貴方も貴方自身の「ジュニアサンダーセブン」をイメージして、コンテストにチャレンジして下さい!
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